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今日のゲストは生涯に二度 戦いに身を投げました
最初はベトナム戦争で 二度めは反戦帰還兵として
1987年9月1日に ブライアン・ウィルソンさんは
カリフォルニアの基地周辺の線路に 3人で座り込みをしました
中米に武器を輸送する軍用列車を 止めようとしたのです
列車は止まらず ウィルソンさんは 両脚を失いました
ウィルソンさんを スタジオにお招きしました
帰還兵仲間が参加している 全国の占拠運動を回っています
自伝『鉄路の血痕』についても 話していただきました
手こぎ自転車で西海岸をほぼ完走し 今は東海岸を旅しています
まず1987年9月の事件について お聞きしました
カリフォルニア州コンコードの 海軍武器庫のそばで
非暴力の抵抗行動をしていました
1987年9月1日のことです
行動は前もって計画しました
ニカラグアとエルサルバドルで 米国の政策が招いた虐殺を見て…
そこでは何が起きていたのですか
レーガン政権によるテロ戦争です
ソモサ政権を倒した ニカラグア革命政府や
抑圧的な政府を倒そうとする エルサルバドルの人々を
テロリストと呼んだのです
「ソ連が中南米に 拠点を築きつつある」という
何の根拠もない主張でした
他国の自決権を抑圧するための いつもの口実です
そこで 武器の出元である カリフォルニア州の
コンコード武器庫に行きました
戦費の拠出も止めようと 議会への請願をしましたが
議会はもう企業を代弁する 少数独裁の機関になった
我々は直接行動で 阻止することにした
武器はトラックや列車で 港まで運ばれます
約5キロの道のりの途中にある
高速道路との交差地点に 陣取りました
3カ月の座り込みで大勢が逮捕され
私はその支援をしました
ベトナム帰還兵による 国会議事堂ハンストから1周年の
1987年9月1日に
レールの間に座り込み40日間 水だけのハンストをやると
2人の仲間と決めました 列車を止めるためです
夏の間ずっと 列車の動きを観察しました
白リン弾や迫撃砲など 何百万発もの弾薬を満載した
貨物列車が走るのを目にして
行動に出るべきだと感じたのです
非暴力の「占拠」運動を 線路上に拡大しようと思った
行動の内容と理由や日時を 基地に伝えましたが
司令官との面談は拒まれました
当日の正午 我々3人の帰還兵は 線路上に座り込み
ハンストを始めましたが
すぐ投獄されると思っていました
線路のすぐ脇に大きな看板があり
「武器輸送の妨害は 罰金と禁固1年」と
書いてありましたからね
その日の最初の列車は 正午に通過の予定でした
目覚めた時には病院でした
4日後です 記憶はない
友人40人の証言によると
列車が加速したので あとの2人は寸前で逃げました
FBIのビデオ分析によると 私をひいた列車は
法定最高速度の3倍まで 加速していました
運転士は停止するなと 命じられていたのです
前代未聞の違法な指令を 出した理由は
私が列車乗っ取りを 計画したからだと言うのです
基地には350人の 海兵隊員がいるのです
現場には地元の警官もいたので
私は安全だと思っていました
入院中にFBI捜査官が 解雇されました
22年勤続した人でしたが
我々をテロ容疑で捜査するのを拒み 解雇されたのです
衝撃的でした
私はNY北部出身の典型的米国人で
ベトナムに行ってからは 父の言う 「はみだし者」になったけれど
こんな事は 想像すらしていませんでした
いくら手段を選ばない政府でも
外国でならいざ知らず 国内で自国民にこんな事をするとは
4日後に目覚めた時 事態を理解できましたか
ベッドの足もとに たくさんの観葉植物が見えました
恋人がつきそっていました 私が最初に言ったことは
「監獄なのに鉢植えがある」
「身内もそばにいるんだね」
列車にひかれて入院中なのだと 家族が説明してくれました
とても信じられなかった
その後 数日の間に 自分がひかれるニュース映像を
病室のテレビで何度も見ました 信じられない思いでしたね
もっとも こんなことは
米国の暴力支配からの 解放を求める世界中の人が
ふつうに経験していることです
米国の政策の残酷さを 身をもって知らされただけです
私が目覚めた日 9千人が線路に集まり
レールを百メートルほどはがし 枕木を組んでオブジェにしました
その後28カ月間 朝から晩まで 線路の座り込みが続き
常設キャンプができ 最大200人が参加しました
列車もトラックも通さなかった 2100人が逮捕され
3人が警察に腕を折られました 24年前のことです
当時の「占拠」でも 警察は暴力的でした
でも輸送列車は止まりました
膨大な数の人々を逮捕するまで 停まるしかなかった
ご自分の事故映像を見て 何を思われたのでしょうか
列車にひかれて 両脚が切断されたのですね
片足は切断され もう片方も粉々です
頭蓋骨はぱっくり割れ
今もここに板が入っています
割れた頭蓋骨の巨大な破片が刺さり 右前頭葉を破壊しました
手術中に死ぬかもしれないと 医師団は心配していました
ブライアン・ウィルソンさんに 1987年の経験を伺っています
自伝『鉄路の血痕 ブライアン・ウィルソン回顧録』の
お話も聞きます
「ライブズ・イン・ザ・バランス」 リッチー・ヘブンズでした
ベトナム帰還兵の 非暴力反戦運動家ウィルソンさんが
軍の武器輸送列車にひかれて 両脚を失ったのは1987年です
中米への武器輸送を阻止する 非暴力行動に参加していた時です
FBIや海軍基地の 対応について聞きました
我々の姿が見えなかったと でたらめな主張をしました
武器輸送列車の正面には 常に2人の見張りがいました
運転士と無線で連絡を取り 障害物の有無や
速度制限順守を確認するのです
200m先から見えたはずです
見えなかったと言うのなら 職務怠慢か偽証のどちらかです
仲間が私を線路に突き飛ばした という報道もありました
仲間は約40人で 線路にいたのは3人です
12人はベトナム帰還兵でした
エルサルバドルとニカラグアで 毎日無数の農民を虐殺する
武器を止めようとしたのです
エルサルバドルやニカラグアの 被害者とは?
何百人も会っています
事故の前にも 後にも
ニカラグアの戦地に数カ月住み
エルサルバドルでゲリラや 人権活動家と話しました
恐ろしい規模の殺人と暴力が起き
虐殺を恐れる人々が 移住を余儀なくされました
滞在中に見聞きしたことに 激しく心を動かされました
線路に座り込む前の1987年春
手足を切断された 200人の患者を見舞い
病院の外に腰を下ろし考えました
「彼らの脚と私の脚には 同じ価値がある」と
3カ月後に自分が脚を失うとは 思いもよりませんでした
裁判では誰を訴えたのですか 証言から分かった事は?
運転士3人とその上官を 3階級上まで全員
それから海軍も訴えました
先に運転士から訴えられた とっぴな話で
私が逃げなかったせいで 精神的損害を受けたというのです
2年後に棄却になりましたけどね
私は運転士たちと政府を 不法行為で訴えました
公務員の不作為は 政府が責任を問われます
証言で判明したのですが 運転士たちは朝6時の出勤時に
列車を止めるなと 命じられていました
海軍の報告書によれば 200m先から見えたのに
ブレーキをかけなかった
見えたのは彼らも認めたが その後も減速しなかった
逆に加速したのです
証言を取るため毎日8時間 5日間かかりました
机の向こうは運転士と弁護士7人 こちらは弁護士1人
証言のためにパスポートの提出を 要求されました
過去の旅先を全部調べられました 中南米や中東です
誰の招きで旅費はどこから 誰が出迎え 宿泊先はどこか
しつこく尋問されました 彼らの目的は明らかで
私が外国の情報員だと 証明することです
無登録の情報収集は違法です
どこの国のスパイだと?
ニカラグアです
ある時 言われました オルテガ大統領にカダフィが渡した
米国での広報活動資金の 一部を受け取ったはずだと
良心に従った無報酬の活動など 理解できない連中です
思考範囲の外なのでしょう 私の両親も同じでした
私はベトナムで悟りを開き すっかり変わった
両親との関係は断絶しました
その時の話をしてください なぜベトナム戦争に
徴兵です 1966年で 大学院生でした
専攻は?
法律と犯罪学です
どこで?
首都のアメリカン大学の 法科大学院に通っていました
学生は徴兵されないと思っていた うかつだった
というと?
私はNY州西部の 農業地帯の出身です
ブドウ栽培と酪農が盛んです
自営農の若者は徴兵免除でしたが 学生は後回しになるだけでした
だから農業地帯では 徴兵対象の若者が足りなくなると
学生の徴兵猶予が取り消され 私も召集されたのです
私は戦争を支持する 右翼の反共主義者でした
空軍士官として入隊し 4年間つとめました
空軍本部で2年間勤務した後 3カ月の特殊任務の訓練を受け
戦地に送られた
ベトナムでは爆撃が 「目標」に与える効果を
評価する仕事をしました
「目標」が村だとは思わなかった
1969年4月のこと メコン・デルタの漁村に対する
ナパーム爆撃の効果を視察しました
ベトナム人の死体が7~800体 半数以上が子供でした
自分が見たものに打ちのめされ その瞬間 気づいたのです
ベトナム人は私の家族だ 自分は間違った側にいると
米国中心の思想にどっぷり漬かって 27年間生きてきた私には
青天のへきれきでしたが
彼らも私も同じ人間なのだと はっきり自覚したのです
そしてベトナムにいる間に 明確な反戦に転じました
上官らに対しても 戦争反対を宣言しました
戦争や爆撃は止められなくても 意見は言った
正気を保つためです
周囲の賛成は?
皆無です 上官たちには笑われました
民間人や民間施設への攻撃が 交戦規定違反だと主張して笑われ
戦争には規則など ないことに気づきました
ただの お題目なのです
いったん戦場に入れば 規則も法律も存在しません
目からウロコが落ちる思いでした
体験して初めてわかったのです 人間性を失う状況におかれたと
1人の白人男の再生が始まりました
一生を通じて学び続けるのです たとえ意見が合わなくても
相手に共感し 尊重して協力する 決して傷つけない
つまり非暴力の道です
ベトナムからの帰国は何年ですか
1969年です 反戦的な言動で 早く帰されたのです
兵役期間の最後の1年は ルイジアナ州にいました
まるで別人です ルイジアナでは活動家でした
毎日カレンダーに印を付け 除隊を待ちました
ベトナムを出たときに 訴追を受けたのですが
軍法会議にはかけられなかった
戦争に反対だから?
50ぐらい容疑があった
扇動 反逆 軍紀違反 敵との内通 公共物窃盗
奇妙な話で全部でっちあげです
最終階級は?
大尉でした
帰国されたのは 1970年ですね
線路に身を横たえたのは1987年
正確には座り込みです 横たわってはいません
そこまでの17年間の経緯は?
修士号を取って1972年に 法科大学院を卒業しました
形式ばった法廷弁護士の仕事は 不向きだと思いました
権威を自動的に尊敬することは もうできません
命令や指示に従えるとは 思えませんでした
そこで司法を離れ 監獄の問題に取り組みました
刑事司法制度と呼ばれる仕組みの 不正の問題です
不正義そのものです
様々な団体で働きましたが 裁判弁護はしていません
長い活動の間には 州上院議員の補佐官も務めました
1981年にはベトナムの記憶の フラッシュバックに苦しみました
帰還兵への支援もしました
フラッシュバックとは どんな体験ですか
独房棟で囚人に面会していると
たまたま2人の看守が囚人を 独房から引きずり出しました
私がいたのと同じ階です
看守たちは長靴で囚人を踏みつけ こん棒で殴りました
囚人の悲鳴が コンクリートと鉄の監獄の中に
大音響でこだましました
その瞬間 私は ベトナムに戻りました
建物の反対側だったのに いたたまれなくなり
よろめきながら廊下を歩きました 足元に多数の死体が見え
倒れまいと 独房の扉にしがみ付きました
頭の中で私はあの村にいた
爆撃後の様子を見に行った 村のひとつにです
私は泣きわめき 看守たちの目など気にもせず
7つのドアを通って車に戻り 1時間半ほど 震えていました
涙が止まらず運転もできません
封印していたベトナム帰還兵の 意識に目覚めました
無知だった自分を 恥じたくらいです
啓示を受けたように 生き方が変わりました
世界の本質をつかんだという 意識がありました
最初に参加した自助グループの 会合で言いました
「私が戦争の悪夢から 脱する方法はただひとつ」
「政策としての戦争の 邪悪さに向き合うことだ」と
同意の声はなく ファシリテーターは 「政治の話は禁物だ」と言いました
私は反論しました
「政治じゃない 自分の経験だよ」
「我々がやった虐殺を理解せずに どうやって前に進むのか」
「11年にわたって 毎日2100人も殺した」
国の魂にかかわる問題です まず己を知るべきです
その後2年間 他の帰還兵のために PTSDと枯葉剤関連の訴訟活動をし
その仕事を辞めてから ニカラグアを初訪問しました
レーガンの言う「ソ連の手先」とは
自立を求める貧者の運動に レッテルを貼るものだと確認した
到着して1週間ぐらいで 山間部に入り
通訳を伴って調査をしました
サンディニスタ革命をつぶすため
レーガン政権が雇って訓練した テロ組織のコントラが
3つの農業組合で 11人を殺しました
6人分の遺体が覆いもかけず 馬車で墓地に運ばれるのを見て
私はただ泣きました
その時に気づいたのです どんな文明の発展も
ひどい搾取 残虐 殺人など 暴力の上に成り立っている
そこで歴史を学び直した
学問として文明の歴史を学ぶうち 自分の無知に気づきました
事実の背景も 抑圧された人々の気持ちも
ちっとも分かっていなかった
ちゃんと知りたくなった
何千年も続く不正の歴史と 自分の人生の歴史的背景をね
その後何度もニカラグアを訪れ
米国の政策を研究しました
現地の友人や知人が50人も コントラに殺されました
エルサルバドルでも15人の 知人が暗殺部隊に殺されました
家族が殺されたような 個人的な体験です
家族が殺されたとなると 感じ方も変わります
それを経て線路に 座り込んだのですね
私の身体をどけない限りは 武器の輸送ができないようにね
中米の犠牲者たちは 私の家族だからです
一緒にいた2人の仲間や 他の人たちも同じ気持ちだった
他者への共感こそが 人間の本質だと気づきました
私が生まれ育った社会では 抑圧されてきた感情です
個人主義と競争と 物質的な欲望を優先し
協力や共同体や好奇心を 軽視する社会です
私は探究心を身に付けた
大学や大学院では 真実の探求を教わりません
ベトナム帰還兵の ブライアン・ウィルソンさんは
自伝『鉄路の血痕』の著者です
ブルース・スプリングスティーン 「アメリカに生まれて」でした
ウィルソンさんの誕生日は 7月4日の独立記念日です
反戦活動家でベトナム帰還兵
1987年9月1日 列車にひかれ 両脚を失いました
米国の中米政策に反対し
武器輸送を非暴力行動で 阻もうとしたときのことです
心身の回復について伺いました
事故で入院した後 両脚を失ったことに気づくまで
どのくらいかかったのでしょう
2週間後くらいです 全身に包帯が巻かれていました
どこもかしこも ケガだらけでしたからね
骨折19カ所 腕も肩も傷だらけ
どこをひかれたのですか?
全身まるごとでした
横向きで線路に寝ていたのですか
まっすぐ座っていました
現場にいた友人たちの証言では
仰向けに倒れ 車両の下になったそうです
排障器と線路の狭い隙間に 奇跡的にはまり込んだ
私は大柄ですから
車輪の下でぼろ切れのように 転がっているのに
列車は止まらず 加速しました
2人の監視員は平気で 「運転続行」と言ったそうです
殺人未遂だったのです
裁判準備のために行った 疑似陪審でも
故意による殺人未遂だという 結論が出たので
和解への戦略を立てました
怠慢なら別ですが故意では 訴訟で政府に勝てません
2週間かそこら過ぎたころ
手足のギブスを 換えることになりました
私は足に激しい幻肢痛がありました
もう足がないのに 常に痛みを感じるのです
ですからギブス交換までは 実感がありません
切断部分を目にしてようやく
自分に脚がないと実感しましたが 激しい幻肢痛は続きました
切断した場所は?
膝下15cmほど先です
両脚ですね
それ以外の組織は健康でしたから
義足で歩くのは快適です
歩けるようになるまでに 数カ月かかりました
脳のケガの影響は不明でしたので 神経科の検査をたくさん受けた
韻のテストやなぞなぞは苦手ですが
その程度で済んでよかった 頭蓋骨には今も板が入っています
治るのはかなり早かった
素晴らしい友人に支えられ 病院で手厚い看護を受けました
本の巻頭写真の友人たちが 止血してくれました
事故の2分後に到着した 海軍の救急車は手当てを拒み
担当外だと言って去りました
一般の救急車が来るまで17分も 病院へ行くのが遅れました
どうして遅れたのですか
海軍が応急処置も運搬も拒んだので 皆は必死で別の救急車を呼びました
やって来た海軍の消防隊は
私が生きていることを 確認しただけでした
当時の恋人は助産師でしたから すぐに点滴を始め
別の救急車が来るのを待ちました
生き延びたのは運が良かった
加速する列車にひかれて 生き延びた者なんて他にいない
写真やビデオものこっている
それだけでもすごいのに
24年後の今でも 政治運動を続けています
一貫していますね 事故直後に活動を再開されました
初めて国外に出たのは 1988年3月でした
二度目の脳外科手術で 頭膜の縫合部分を確認して
板を入れた後でした
ニカラグアでは英雄扱いでした
空港で数千人に迎えられ オルテガ大統領がタラップを登り
私の手を取ったまま 滑走路に降ろしてくれました
クリス・クリストファーソンと 大統領のジープに同乗し
大群衆の間を縫うように マナグアの町を進みました
皆が「ブリアン」と言いながら 私の腕に触れました
クリストファーソンが肩を叩き 「気分はどう」と尋ねました
「ブリアン」とは?
「ブライアン」のスペイン語です
「とにかく驚いた 現実感がないね」と私は答えた
自分たちを殺す武器の供与を 止めようとした男を
ニカラグアは歓迎してくれた
達成感はありましたか
問題に注目を集められました
今の私にとって成功と失敗は 明確に区別できません
これは旅と同じなのです
人生は終わりのない旅 自伝の主題です ただ歩き続ける
尊厳は長く生きることよりも 価値がある
何年生きられるか心配せず 今の瞬間を全力で生きる
いま最大の課題は
米国式の生活と西洋文明が 地球を脅かしていることです
人類 特に西洋人が
共感と相互尊重の精神を 回復しなければ
地球の未来は危機的です
こうした原初的な精神は ついに占拠運動に結実しています
人は永遠の抑圧に耐えられません
幸運にも 9月1日の出来事は 私に多くの扉を開けてくれた
世界中の人に呼ばれました
パレスチナ難民キャンプでの 長期滞在では
少年たちが夜通し 私の傷をなでてくれました
仲間の多くが 脚を失っていたからです
誰もがジャック・ロンドンの 『鉄の踵(きびす)』を読んでいた
私は知らなかったのですが よく感想をきかれました
物質主義にしがみつく 西洋民主主義の未来を
オーウェルより42年も前に 預言した本です
無条件で歓迎されるというのは 素晴らしい体験でした
占拠運動の現場を訪問されました どちらへ?
ポートランド市です
オレゴン州ですね
初期に1万人デモがあり
今は市議会前に400人が野営 今のところ当局も協力的です
それからシカゴ クリーブランド ボストン
ニューハンプシャー州の2市 メイン州ポートランド
2日前にNYに来ました 電車を降りてウォール街の
「占拠」に直行しました すごい光景ですね
ビリー牧師の紹介で演説をしました
牧師とは初対面でした
どんなメッセージを?
7カ所の占拠運動の仲間からの 連帯の声を伝えに来たのだと話し
そこでの体験を簡単に語りました
そしてNYの出来事に 皆が励まされていると伝えました
垂直構造への服従に代わる 水平的革命の始まりに
私も勇気をもらっています
歴史的な服従の構図が 大きく転換するのです
階級制度への服従が持つ 危険と不健全さも自伝の主題です
アルゼンチンやメキシコの 民衆革命が志向した水平型社会は
垂直型の国民国家より 将来性があります
イラク帰還兵の スコット・オルセンさんが
警察の弾に撃たれました
脳にですね オークランドでのことです
今は入院中です いま現在は意識がありません
友人の1人に取材しました 私も占拠運動を取材して
湾岸 イラク ベトナムからの 多くの帰還兵に会いました
彼らが「占拠」に参加する理由は?
ある帰還兵が言うには 「2008~10年まではイラクで」
「今は占拠で国に奉仕している」
帰還兵の役割は重要です
1970年にベトナムから戻り
反戦帰還兵の会に 入って以来の信念です
仲間の多くは政府の説明を すなおに信じてきたが
みんなウソだった 戦争も 国の起源についても
米国社会の神話や思い込みを 疑う人々の列に帰還兵が加われば
大きな力と経験を 平和運動に与えることができます
ボストンでは1週間前の深夜 警察が占拠運動を排除しに来ると
「平和を求める帰還兵」が 大人数で現地に急行し
正面に立ちはだかりました 警官隊になぎ倒されても
帰還兵は反撃しませんでした こうすれば誰が見ても
暴力的なのは州の側で 占拠側ではないと分かるからです
とても重要なので 繰り返します
証拠はそろっています
我々は挑発していません 暴力をふるうのは警察です
そのうちに誰もが気づくでしょうが
特権層のための政府が 我々を攻撃し公共財産を貪ります
警察が守っているのは 壁の向こうの特権層だ
でも警察だって気づくでしょう
幹部以外は99%の側の人間です
クリーブランドでは 抗議者の味方でした
残念ながら最近 占拠テントを強制排除したらしい
情勢は緊迫しています
これは世界的な運動です
「緊縮政策への反発」です いつまでも我慢はしないぞと
自由と自治と解放への切望がある
国家の教義を受け入れるうちは 抑圧が続きますが
ある日 痛みを感じだします
痛みや逆境が創造的な刺激になり 殻を破って飛び出すのです
同じ人間として手をつなぎ 声を上げます
「おかしいぞ!もうたくさんだ」
北部では冬の寒さで 占拠も挫折するかもしれません
でも完全につぶれることは ないと思います
共感 相互尊重 協力 平等 公正などの
原初的な精神が 運動の本質だからです
我々の遺伝子に埋め込まれた 基本的衝動です
イデオロギーがそれをかき消すと ベトナムで気づきました
現地の人々は私の家族だと気づき 偽りの教義は5分で消えうせた
「取り消しの効かない知識」でした いったん手に入れると
昔の教義に戻る余地はなく 完全に意味を失いました
私は人間性を失っていました
人間性を取り戻すことは 人の義務です
1987年9月1日の出来事を 後悔していますか
足を失ったのは残念ですが 信念の行動は後悔しません
3人の運転員もベトナム帰りで 彼らは命令に従いましたが
私はもう命令に従いません 命令に従えば私でなくなる
平和運動家の退役軍人 ブライアン・ウィルソンさん
自伝は『鉄路の血痕』です