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「ビアトリス!」
ビデオゲームにおける女性の表現と役割を追求 するビデオシリーズの第2話へようこそ。
このプロジェクトは、 ゲーム劇中の女性に関するトロープ (比喩)、
プロット・デバイス (筋書きを進めるための要素・仕掛け)、 および様式を
大局的な観点から考察していきます。
このシリーズには、皆さんの愛するゲームや キャラクターの批評が含まれます。
ですが、メディアを楽しみながらも、
そのメディアの問題面や有害面の批評が可能であり、
必要であることを忘れないでください。
まずは一点注意させてください。
近代的なゲームに関して話すと伴い、 女性への写実的な暴力表現の事例を解析していきます。
この暴力表現は最低限に抑えるつもりですが、 不快な内容も含まれていますので、ご了承ください。
また、保護者は一回視聴した上で 子供に見せるかどうか判断するようお勧めします。
前回は「悲嘆の女性」の歴史と、
このトロープが80〜90年代の クラシック・ゲームに広く使われるようになった 経緯を探求しました。
また、なぜ「悲嘆の女性」としての女性の描写が 問題的なのか、主な理由を探求しました。
ですので、第1回をまだご視聴できていない皆様は 第2回の前にご視聴いただくようお勧めします。
トロープとしての「悲嘆の女性」とは、 女性キャラが危険な状況に晒され、
自力で脱出できず、男性キャラに救われなければならない プロット・デバイスで、
主人公に冒険の理由もしくは動機を与えます。
「悲嘆の女性」はあくまで「時代の産物」だけだった、 もう使われていない、
と考える人もいるかもしれません。
しかし、プレーヤーが操作できる女性キャラクターが 昔より増加したものの、
このプロット・デバイスはまだまだ使われているのは現実です。
実際のところ、近年でも「悲嘆の女性」は プロット・デバイスとして多少再起しています。
嘆声
嘆声
「ライガー!」
「うるさい!」
嘆声
嘆声
「お願い!私を救い出して!」
嘆声
笑声
「彼女を救えると思うのか?追ってきな。」
「アレックス!」
嘆声
「い・・・痛い!」
「アリス!?」
「助けて!お願い!」
「彼女の頭に弾を」
「可愛い鳥だねー」
それに、これは氷山の一角にすぎません。
このトロープが未だに広く使われていることは明確です。
「彼女を離せ!」
こういったゲームの大半は、 露骨であか抜けていない幻想を男性ゲーマーに届けるため、
多くの開発者は重苦しい男性の主人公や 反英雄に手軽な動機を与える手段として
「悲嘆の女性」を諦めたくないようです。
ただ注意しないといけないのは、「悲嘆の女性」は
トロープとして脚本家が用いるプロット・デバイスなので、 該当の女性が必ずしも
被害で定義される一次元的なキャラクターに なるわけではありません。
「悲嘆の女性」であっても上手く描かれ、 面白く、動的で、好ましいキャラクターも存在します。
「この帽子でアンタに火をつけようとしてるんだよ!」 「な〜んと意地悪でステキな頭脳の持ち主でしょう!」
せっかくの面白い展開も、最終的に無力化されてしまうため、 さらに不満な結果となります。
生意気な「悲嘆の女性」は場合によって捕獲者と戦ったり、
「あっち行け!」
自力で逃げようとするかもしれません。
ですが、その努力は空回りにしかなりません。
たまに「悲嘆の女性」は最後の最後で 主人公を手助けしたり、
悪役が負けた後に追い打ちしたりしますが、
このような展開は主に象徴的であって、 冒険が終わった後、
もしくは危険が逃れた、意味のない時に起こります。
このような瞬間は「見せかけだけ」であって、 本当に「悲嘆の女性」に力を与えていませんし、
トロープの重要な変革に貢献しません。 このような瞬間を見ると
開発者は「悲嘆の女性」に依存し続けた弁解として、 ゲームの完成直前に挿入したように感じます。
ゲーム開発者はたまに「悲嘆の女性」と 男性の主人公の関係性をより深く説明したり、
感情的な結びつきを作ったりします。
最も恩着せがましい事例では女性の無力さを表現することで
ライターが男性プレーヤーに感情的な反応を起こそうとします。
第1回で話した様、女性キャラクターは「悲嘆の女性」扱いにされると
表向きの媒介が除かれて被害状態に陥ってしまいます。
従って、親密さ、愛情やロマンスを女性の無力さと被害によって生まれる要素として見せる物語は
「無力で受動的で従属した女性はその立場にいるからこそ
望ましい」という、広く知られている、退化的な概念を助長してしまいます。
残念ながら、このような物語は恋愛関係の中で
権力不均衡が望ましい、
もしくは普通だという保護者的強制主義の信念も助長します。
「悲嘆の女性」は未だに使われていることは確認しましたが、
実は他にももっと狡猾な面があるのです。
この10年間、ゲーム制作会社は酷似している商品が溢れる市場で
自分の商品を目立たせる方法の探求で必死に頑張ってきました。
その結果の一つは
できるだけダークな内容で目立たせようとするゲームが
劇的に増加したのです。
開発者が「悲嘆の女性」のステレオタイプにバラエティーを加えるために
他に女性を被害者とするトロープと混ぜ合わせた事例がいくつか浮上してきました。
この「トロープ・カクテル」、
つまり女性を退化的な考え方で、もしくはネガティブに代表する複数のトロープを混ぜ合わせた使い方、
の最も一般的な事例は次の三種だと思われます:「使い捨ての女性」、「女性の安楽死」と「冷蔵庫の中の女性」です。
「冷蔵庫の中の女性」という表現は
男性キャラクターのプロットを進めさせるために女性キャラクターが殺されたり、
虐待されたりする、広く使われたトレンドを指す表現です。
この名称はグリーン・ランタンの第54巻で、
主人公が家に帰って、彼女が殺されて冷蔵庫に隠されたのを発見した、
という場面からきました。
このように男性のキャラクター展開を得るがため代わりに女性キャラクターの命を捧げる
プロット・デバイスはメディアで昔から使われていますが、
ショックを得る目的として女性に対するグロい暴力表現を使うことは特に近代的なゲームでは流行っています。
「冷蔵庫の中の女性」のトロープは最も有名で近代的なゲームにて土台として使われています。
例えばマックス・ペインとゴッド・オブ・ウォーの感情的なフックとして採用されています。
「我妻。。。我が子。。。」
この二つの作品では主人公の妻と娘が殺されて、
それをグロい復習クエストの動機として使われています。
面白いことに、逆の場合、
つまり彼氏が殺されたから復習の旅に出る女性の事例、
はほぼ存在しません。
このような立場逆転は、見るとジョークとして捉える程珍しくて、
このシーンの面白さの理由の一つでもあります。
このトロープについてゲームでどのように使われているかという解説だけで非常に長い動画を作れますが、
今回は「冷蔵庫の中の女性」は「悲嘆の女性」とどのような関係を持って、
特にゲーム開発者はこの二つのプロット・デバイスを混ぜ合わせるために見つけた手法に集中したいと思います。
一つの割と人気な使い方はこの二つのトロープを同じプロットラインで使って、
主人公の妻を「冷蔵庫の中の女性」にして、娘を「悲嘆の女性」にする、単純なバリエーションです。
1997年のアウトローズでは主人公の奥さんがぐろく殺されて、娘を救います。
「いったい誰が?」 「奴らはサラを拉致した!」
ケーン&リンチでは主人公の奥さんがぐろく殺されて、娘を救います。
「奴らがジェニーを見つける前に俺は奴らを全滅するぞ。」
プロトタイプ2では主人公の奥さんがぐろく殺されて、娘を救います。
インバージョンでは主人公の奥さんがぐろく殺されて、娘を救います。
「レイラはどこだ?」
アスラズラスでは主人公の奥さんがぐろく殺されて、娘を救います。
「彼女を助けて」
ディスオナードでは女帝がぐろく殺されて、彼女の娘を救います。。。
それに彼女は主人公の娘でもあることも強く暗示されています。
「エミリーを見つけて。彼女を守って!」
「冷蔵庫の中の女性」と「悲嘆の女性」はお互いにプロット・デバイスとして似ていることは偶然ではありません。
両方とも無力化された女性を含めます。
ただ、一つは拉致による無力化でもう一つは殺害による無力化です。
このプロット・デバイスを一緒に使えば開発者は復習の動機とおなじみの
「女性を救いだせ!」という動機、両方とも使えます。
信じられないような話ですが、
このトロープ・カクテルのもっと狡猾なバリエーションがあります。
このバリエーションは「冷蔵庫の中の悲嘆の女性」と呼びます。
「冷蔵庫に入る」というのは基本的に「殺された」という意味で使っているため、
恐らく「冷蔵庫に入っているのにどうやって悲嘆の女性になるのか?」と思うでしょう。
「冷蔵庫の中の悲嘆の女性」というのは主人公のスイートハートがぐろく殺害されて、
彼女の魂が悪役に奪われたり、拉致されたりすると起こるのです。
この「超ダークでかっこいい!」バリエーションでは女性が二重無力化されて、
開発者は復習の動機と「悲嘆の女性」を救う動機両方とも使えて、
おまけで同じ女性キャラクターで済みます。
このトロープ・コンビネーションはクラシック・ゲームであるスプラッタハウス2や
魔界村の時代から使われていますが、
「冷蔵庫の中の悲嘆の女性」は昔より最近流行っているのです。
MediEvil2では殺害された彼女の魂が拉致され、主人公は彼女を救いに戦います。
嘆声
ザ・ダークネス2では殺害された彼女の魂が地獄に奪われて、主人公は彼女を救いに戦います。
「彼女の魂は俺の物にする!」
シャドウ・オブ・ザ・ダムドでは殺害された彼女の魂が地獄に奪われて、主人公は彼女を救いに戦います。
「そうだ、彼女を救いだせ!」 嘆声
ダンテズ・インフェルノ ~神曲 地獄篇~では殺害された妻の魂が地獄に奪われて、主人公は彼女を救いに戦います。
キャッスルヴァニア ロード オブ シャドウでは殺害された妻の魂が地球に窮地されて、主人公は彼女を救いに戦います。
「冷蔵庫の中の悲嘆の女性」はいわゆる「大人向けのテーマ」を注入するために
女性をぐろく犠牲にするトレンドの一部だけです。
開発者は虐待された女性のイメージを扇情的に使うことで
ユーザにゲーム内容がさらに感情的に複雑だと騙したがっているでしょうが、
正直にいうとこのストーリーの大半は特に
「マチュアな」内容を一切含まれず、ただ「女嫌い」にしか見えません。
ここで話しているのは女性に対する暴力表現ですのでその定義をはっきりしましょう。
「女性に対する暴力表現」という時に、主に女性が被害者となるイメージ、
もしくは暴力がキャラクターの性別に特別に繋がっている場合です。
ですので、
暴力的なシチュエーション、もしくは争いに参加している女性キャラクターなど、
敵と対等の地位で戦っている女性キャラクターは被害者とされていないため、含めません。
前回説明したよう、「悲嘆の女性」のトロープを使う際に、女性が必ず救われるわけではありません。
「俺の周りに混乱状態、守ろうとしていた子の死体の上に立っていて。。。あの時と全く一緒だ。。。」
主人公は遅れたから、
もしくは彼女は既に死んでいたから(!)「悲嘆の女性」を救えない場合もあります。
「ニコールはずっと死んでいたんだ。」
「カイリーナ!」
「こんな力を持っていても。。。何もできなかった。」
「私を殺して。。。」
また、2009年に発売されたバイオニック・コマンドでは
奥さんはずっと死んでいただけではなく、何と主人公のバイオニック・アームの一部になっています。
「あなたに関わって欲しくなかった。。。」 「大丈夫だよ。今後はずっとそばにいるから。」
そうです。彼女は何と彼の腕にされたました。
ただ、このトレンドの一番エクストリームでぐろいバリエーションは開発者が
「悲嘆の女性」を安楽死と組み合わせる時です。
これはプレーヤーが「最善の選択だから、彼女のために」女性を殺すしかないという場面です。
私はこれを「悲嘆の安楽死女性」と呼びます。
多くの場合、
「悲嘆の女性」は重体したり、変身したりしぐろい状態になって、
主人公は彼女を安楽死させる選択肢しかないケースです。
これは1980年代に発売されたスプラッターハウスから始め、
主人公の誘拐された彼女が悪魔にとりつかれて、
主人公本人が彼女と戦って、殺すことを余儀なくされます。また、キャッスルヴァニア(2003年)では
主人公がドラキュラを倒すために必要な力を手に入れるよう、彼女を殺す事を余儀なくされます。
「レオン、ありがとう。」
2000年のブレス・オブ・ファイヤー4では、エリナが忌まわしい化け物に変身して、主人公に殺して欲しいと願います。
ギーアズ・オブ・ウオー2では、ドムは誘拐された奥さんのマリアを救いに行きます。
ただし、彼が彼女をやっと見つけたら、
彼女は飢えて緊張性昏迷状態に成っていますので、彼は彼女を撃ち殺します。
天誅4では。。
「切れ!仕方ないから!」
。。。姫様は悪役を殺すために自分を貫通するよう、従順に願って、
主人公が彼女を殺してしまいます。
特に甚だしい事例は2001年のグランド・セフト・オートIIIにあります。
プレーヤーがマリア・ラトーレを救った後に、
彼女が「女の話」を始めたから彼が彼女を突然に撃つと暗示します。
「爪が割れたし、カミはバッサバッサ!有り得ないでしょ!これだけで50ドルも掛かったの!」(銃声)
ライター達はプレーヤーにうざいと思わせて、
最終的に彼女に対する暴力を女嫌い冗談のおちとします。
このような殺害はたまにカットシーンでプレーヤーに提供しますが、
プレーヤーの操作で女性を殺してもらう場合もあります。
悪魔城ドラキュラXXのリメークでは、リヒター・ベルモンドの愛しいアネットを救わなければ、
彼女はヴァンパイアに変身して、プレーヤーが彼女を自分で殺すことを余儀なくされます。
「アネット、君を救えなくてごめんなさい。ただ、俺はヴァンパイアを殺す任務があるので。。。」
「いやだ!己を永遠に私のものにする!」
Duke Nukem 3Dで誘拐された女性達は全員殺して欲しいと、プレーヤーに願います。
この女嫌いな場面は2011年に発売されたDuke Nukem Foreverで再現されただけではなくて、
さらに酷くなりました。
同開発者のギヤボックス社制作のボーダーランズ2では、このような「予測外」の話展開で悪役の企画を止めるために、
エンジェルがプレーヤーに自分を殺して欲しいと願います。
「私を生命維持するイリジウム噴射機を破壊すれば。。。キーはチャージしなくなって、一生の強制労働を止められるのです。」
2008年のAlone in the Darkで、プレーヤーは二つの選択肢から選びます:自分で彼女を殺すか。。。
「早く選びなさい。彼女を殺すか、生きさせるか。お前しか決められない!」
彼女の体で生まれることで、サタンに彼女を殺させます。
パンドラの塔では、エレナが完全にモンスターに変身する前に、
プレーヤーに殺して欲しいと願うエンディングも含まれています。
「お願い!」
「助けて」
「怖いの!助けて!お願い!」
2006年発売のPreyでは、主人公はやっと誘拐された彼女の場所に至ったら、
彼女はぐろく変身し、化け物と融合しました。
また、彼女から助けを求める叫びを聞きながらそのモンスターと戦います。
「トミー、出て行け!彼女は私にあなたを殺して欲しいの!止められない!」
そのモンスターを倒した後に彼女は殺して欲しいと願います。
「トミー、お願い。私を離してください。」
それにプレーヤーは彼女の顔を撃たない限り次ぎに進められないのです。
この「悲嘆の女性」の唯一の目的はただ男性に献身することです。
このような女性キャラクターは自分のぐろい運命を従順に受け入れるだけではなく、
プレーヤーに暴力を与えるよう願うまでです。
このキャラクター達が生き残るのか、死ぬのかというのは完全に男性に任せてしまうのです。
プレーヤーに殺された後、最後の一息で「ありがとう」と発言するケースもあります。
「悲嘆の安楽死女性」はこのトロープ・カクテルのもっともダークな組み合わせですが、
悪役に操られているため、
男性が自分の愛している人と戦ったりすることを余儀なくされるパターンの拡張線でもあります。
PSPのGod of War: Ghost of Spartaでは、クレートスが母親を見つけたら彼女がぐろい化け物に変身して、
彼は彼女を殺すことを余儀なくされます。
また、彼女の最後の一息で「殺してくれてありがとう」と伝えるのです。
「私はやっと。。。自由です。」
Grabbed by the Ghouliesで主人公の彼女が緑のオーガーに変身した後に、
キスを求めながらプレーヤーを追いかけて、
彼女を正常状態に戻すためにプレーヤーは彼女を殴って気絶させる必要があるのです。
シャドウ・オブ・ザ・ダムドのラスト・ボスはなんと主人公の彼女です。
「私は?私は自由になれないの?!」
彼女を撃ち落とすことを余儀なくされます。
このようなシナリオは他に何十タイトルで再現されています:
「その装置を彼女の胸から撃ち落とせ!」
シナリオが微妙に違っていても、このコア要素は一緒です:
各シナリオでは女性を「正常に戻すために」暴力を加える必要があるのです。
このようなストーリーは「自分を失った女性」を「正常に戻すために」
男性が暴力を加えるシチュエーションとして、その暴力を正当化してしまいます。
その暴力は正当だけではなくて、「その女性のために)行う利他的行為として提供します。
勿論このゲームのどれかを孤立して評価したら女性に対する暴力をプロット・デバイスとして
使う正当な条件を見つけられるはずですが、
その架空の世界で特定のイベントが「合理的」であること事態でその暴力を正当化できるわけではありません。
ゲームは孤立して存在する物ではなくて、
現実世界の文化的脈絡に存在する物として評価する必要があります。
この世界で実際に存在している女性人口に対する暴力の蔓延を考慮すれば非常に不安な話です。
アメリカで9秒に1人の女性は暴行を受けるのです。
また平均で1日に女性3人以上が彼氏、夫もしくは元愛人に殺害されています。
研究の調査によると、男女に問わず、
男性が女性に暴力を与える理由としては、女性が悪いと信じるらしいです。
また、暴力を加える男性によると女性の被害者は「殴って欲しかった」、
「殴られるのは当然だった」と述べます。
女性に対する暴力のこの事実を踏まえて、女性キャラを「自分から助けるために」プレーヤーに暴力を加えさせるゲームの制作は
危険な程責任を欠ける行為であることは言うまでもないです。
今回挙げた事例のタイトルの殆どは女性に対する暴力をはっきり推奨しないものの、
プレーヤーから感情を引き出すために女性の苦難を矮小化して、利用してしまうのです。
こんなに怖い現実にあるにも関わらず、
ゲーム制作者は「女性をどう偽って示そうか!」
と皆で企んでいるわけではありません。
殆どのゲーム制作者はただ自分のゲームが伝えるメッセージについて
そんなに考えていないだけでしょう。
また、ゲーム・システムの関わりもあって、プレーヤーが取れる行動は主に暴力である場合、
「問題解決」に使える行動を非常に制限してしまうのです。
すると意味のあるゲーム・システムとして暴力アクションしかなくて、
殆ど全てのシチュエーションで暴力を使うことを余儀なくされてしまいます。
当然、その暴力の対象が
プレーヤー・キャラクターの愛している女性であってもそうです。
組織的性差別の狡猾な特性の一つは、
退化的な考え方や性別に関する危ないステレオタイプは意図せずに伝わったり、保ったりしていることです。
ゲームは一緒です:このようなゲームを遊んでもプレーヤーが急に激しい性差別主義者になるわけではありません。
人間は基本的にメディアを視聴したらすぐ真似するような、
直接的な因果関係はありません。文化的な影響というのはもっと複雑で繊細です。
ただし、メディアの物語は文化的な考えや意見を影響する強い洗練効果があります。
従って、開発者は女性被害者の大げさなイメージを繰り返して利用すると、
男性がアグレッシブで指揮的な行動を取ることに対して
女性は男性に依存して隷属するべきだという性別理論的枠組みを強化するのです。
このような物語はプロットを進めるための触媒として女性のトラウマを利用するものの、
物語は「女性についての物語」ではりません。
暴力の被害に伴う感情的な苦労や肉体的な苦労の考察でも参考していません。
このような物語は完全に男性中心とする物語で、「悲嘆の女性」はただの「抜け殻」で、
自分の人生より自分の死がずっと重要なわけです。
この女性キャラクターは一般的に潔白さ、無邪気さ、優しさ、美しさやセンシュアルさでしか定義されていません。
つまり、このキャラクターは理想の女の本質を思い出させるための象徴だけだ、ということです。
「助けてー!」
実際に、このようなゲームは女性の死を「男性の主人公から不当に盗まれた」というふうに示します。
「なので、俺はお前からこのように大事な物を取るのだ。」 「ジャッキー、これは君のせいではない。。。」 銃声
彼女は彼の物だった、というのは吟味されています。
主人公はこのように「不当な扱い」されたら主人公は自分の物を取り返しにいくか、
無くしたものの弁償としてリベンジを取りにいきます。
表面では被害者扱いされた女性がその主人公の苦労の原因として見せられますが、
言外の意味をもう少し深く考えれば、
その苦労の本当の原因は女性や子供を守る義務に失敗したことから感じる弱さもしくは罪悪感だと、私は思います。
「彼女、俺達の娘にこんな目に遭わせるなんて、自分は情けない男だと思った。」
このように考えれば「失敗した主人公」の物語は本当に「男らしさ」の損失、
そしてその「男らしさ」を取り戻すための冒険がメイン・テーマです。
その「男らしさ」を取り戻すには主人公が他人に暴力を加えることで支配的な影響を与えて、コントロールを取り戻すのです。
結果的に、暴力的なリベンジ中心とした物語を何回も繰り返して遊ぶと男性にも危険な影響を与えられます。
男性が死や悲劇と遭う場合に取れる反応を制限してしまうからです。
インテラクティブ・メディアはどんな性別であっても
辛い内容の探求を提供できる、
素晴らしい媒体だと思います。
ですので、はっきり言いますと、女性キャラクターが死ぬことや苦労することを問題視しているわけではありません。
死は誰にでも影響することで、
ドラマチックな物語に不可欠な要素ではあります。
勿論、「女性キャラクターは死んではいけません!」と言えば馬鹿馬鹿しいです。
ただし、女性キャラクターの死はどのように見せられ、「何故」そのように書かれたのか探求する必要があるのです。
死、大事な人が無くなることとそれに伴う悲しみをもっと本格的に探求し、
被害扱いされた女性を利用しないゲームはいくつかあります。
「Dear Esther」、「The Passage」や「To The Moon」はこのテーマを創造的で進取的、
たまに感動させるような方法で探求するインディー・ゲームです。
この静観的なスタイルを取る事例があるということは期待感を与えますが、
このようなゲームはまだ規則に対する例外だけであるというのは事実です。
残念ながら、ゲーム企業の大半はまだ被害扱いされた女性をベースとした物語のゲーム作りに頼っています。
女性に対する暴力は世界的なまん延です。
従って、この問題をフィクションで触れる時に敬意が求められ、
慎重に行う必要があります。
男性の「男らしさ不足」などからの苦労を中心とする物語で女性を使い捨てキャラとするべきではありません。
今回探求したダークな「トロープ・カクテル」は孤立した事例ではありません。
それどころか、近代的なゲーム物語で繰り返して出現し続けるパターンではあります。
殆どの場合では「悲嘆の女性」は「無力」状態から、「死んでいる」状態になっただけです。
当然、そのキャラクターの視点から考えると、
そんなに進歩はしていないでしょう。
今回はかなり落ち込ませるような内容でしたが、
次回は「悲嘆の女性」を引っくり返すタイトルや「悲嘆の男性」を使った事例も探求してみようと思いますので、
是非視聴してください。