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個人的責任への道
ハリー・パルマーの講演
ありがとうございます。
もう十分です・・・ありがとう。
どうもありがとう。
どうぞお座りください。
皆さん何か学んでいますか?
さらに学ぶ準備はできていますか?
私がこうしてやってきて お話しする1つの理由は
それがアバター®教材の背後にある理論を 少し明確にする機会となるからです。
今日もそうできることを願っています。
私たちが確実にわかっているものの根底には
物理的に明らかなものがあります。
それらは一般的な合意があり、検証可能です。
これは、物質、エネルギー、力、運動、
つまり物理科学に関わる知識全般のことです。
レンガの壁を通り抜けることはできません。
それは検証できます。
また氷はある温度で溶けますが、
それも検証できます。
また自分ができると信じただけで、 ビルから飛び降りて飛ぶことはできません。
私たちは特定の物理的な制限の中で生きており
それらの制限を侵せば
すぐに突然の結果がもたらされ、
多くの場合、痛みが伴います。
ですから明らかなことを研究したければ
繰り返すバターンで、
見て、予測して、検証することを たっぷりやったあとで
知識と呼べる情報を 手にすることができるでしょう。
知識は事実で構成されています。
事実とは見る人、 又は検証したい人にとって
明らかな何かです。
それは証明可能な情報の断片です。
ここに立っている身体がある、 というのは事実です。
事実は疑う余地のない証拠で証明された時に
健全な心が信じるものです。
事実である何かを信じることを拒むのは
幻想の兆候です。
自明の事実は原理と呼ばれます。
それらは証明される必要がない言明です。
それは当然のものとして扱われるからです。
例えば、同じものに対して等しい2つのものは、 お互いに等しい。
これは原理です。
真理という言葉は 混乱をもたらすかもしれません。
物理的宇宙に関連している場合、
真理とは事実上の証拠によって決定されますが
個人的な現実に関連している場合
真理とは主に信念の確信度、 または信頼によって決定されます。
確信にもとづく真理は、
事実上の証拠にもとづいた真理ほど 変えられないものではありません。
信念についての確信度は 変えることができるのです。
それはアバターのような 信念を管理する技術への扉を開きます。
真理を尺度にあてはめてみると、
真ん中のあたりに分岐点があって
そこで真理であることの基準が、 事実から信じることへと変わっていきます。
この分岐点の下では、 そこにあるものは、ただあります。
この分岐点の上では、そこにあるものは、
私たちがそこにあると思っているものです。
分岐点の下で私たちは、 あるがままに知覚します。
レンガの壁はレンガの壁です。
この分岐点の上では、 何か別のことが起きています。
そのレンガの壁について私たちが信じること、
つまり私たちのプライマリーが、 私たちの知覚を思いで色づけ
その思いは、もし私たちがそれを許せば、 反応や感情的な経験を発生させます。
従ってここには、 明確な段階を経るプロセスがあります:
まずは知覚があり、
それが信念によって色づけされると 思いをもたらし、
それが反応や経験を生じさせる。
それはとてもすばやく起きます。
ある人の気づきを減らせば、
知覚の部分がなくなって ただ信念だけになり、
それが思いをもたらし、 それが反応を生じさせることになります。
その人の気づきをさらに減らすと、 信念が無意識になり
単に思いと それがもたらす反応だけになるでしょう。
それが多くの人の機能の仕方です。
ではレンガの壁を外的刺激の比喩として、 例をあげましょう。
純粋な事実と言うレベルで、 あなたはレンガの壁を知覚します。
それはレンガでできた壁です。
それについて何の思いも、信念も 反応もありません。
単なるレンガの壁です。
でもあなたは過去のどこかで、 何らかの理由で、
「レンガの壁は醜い」という プライマリーを創っていたとしましょう。
すると「ただのレンガの壁」 というあなたの知覚には、
「レンガの壁は醜い」という 信念でフィルターがかかり
あなたの思いは 「私はそれが好きではない」となり
レンガの壁に対する抵抗を経験するのです。
これが分かりますか?
この分岐点の下では、 ものごとはあるがままであり
この分岐点の上では、 ものごとは私たちが思った通りなのです。
そしてそれをどう思うかは 過去に創ったプライマリーまで遡ることができます。
その人がどれぐらい自分に気づいていて 落ち着いているか
又、いかに鋭く内観できるかにもよりますが
自分はレンガの壁が嫌いなことに気づくでしょう。
そしてもう少し深く探れば、
レンガの壁について ネガティブな思いがあることに気づくでしょう。
またさらに深く見れば、レンガの壁に 批判的な信念をもっていると気づくでしょう。
そしてその人が本当に集中したら、 レンガの壁について
批判的な信念のプライマリーを 創るように自分を説得した
状況や環境を思い出せるでしょう。
ですから人の心の中では このようなレベルが機能しています:
一番下にはプライマリーがあり
その上には創られた何かの信念があり
その上にはその信念によって生じた思いがあり
一番上には思いから生じた反応や経験があります。
アバターのツールを使えば、
人は自分が気づいているどのレベルでも 人生のパターンを変えることができます。
そしてそのパターンを変えたレベルが 深ければ深いほど
変化は持続します。
反応を創ったり消したりできます。
思いを創ったり消したりできます。
信念を創ったり消したりできます。
あるいは新しいプライマリーを創って
セカンダリーとしてでてくる 古いプライマリーを消すこともできます。
知識と信念の分岐点のどちら側で 自分が機能しているのかを知るのは
大事なことです。
というのも、物理的宇宙と意識では、
使う技術が同じではないからです。
それを混同するのは 大変な間違いとなる場合もあります。
物理的宇宙の中で機能するという 特権との引き換えに、
皆さんは何をどうやって創ったり 消したりするかについて、
お互いの間でしっかりとした合意を創っています。
「レンガの壁を消すべからず」
力を用いて形を変えたり、
空間の中で粒子を配置しなおしたり、
粒子を違うものにつくりかえたりするのは良くても
絶対に「ぱっとなくなる」 などということはないように。
同じルールが創る際にも適用されます。 何にもないところに「ぱっと何かが出現」しないように。
自分の現実を創る際に、最初はこれが
ひどい制限に思えるかもしれませんが、 そうではありません。
というのも様々な学びのゲームを展開するために
安定して予測可能な遊び場が必要だからです。
そして物理的宇宙を創り出すために、 誰かがたくさんの努力を傾けたので、
私たちは物理的技術でそれを形づくったり、 形を変えたりすることに
能力を制限すると合意したのです。
「ぱっ」、は無しです。
一度「ぱっ」を使ってしまうと、 ゲームから追い出されます。
お望みなら、レンガの壁を
そして知識と信念の分岐点の下に 位置するさまざまなものを
共有された物理的現実と呼べます。
それはある種、命のない現実で
ただそこにあるものです。
レンガの壁を見て 「そうだ、あれはレンガの壁だ」と言います。
それについて何の思いもありません。
実際それを直接見ていない時や、
それを通り抜けようとしていない時には
レンガの壁はまるで 存在していないように思えます。
知識の分岐点の上には、 心理学、哲学、神学、形而上学
そして驚くなかれ「個人的現実を創り出す」 などの項目がでてきます。
あなたの個人的な現実は、レンガの壁について あなたが創った思いで構成されています。
あなたはそれを美しいと思ったり 醜いと思ったり、
邪魔だと思ったり 自分の人生最大の障害だと思ったりします。
自分の問題をすべて レンガの壁のせいにもできます。
手が傷ついて、完全な被害者として 地面に倒れこむまで、
それにむかって何度も こぶしを振り下ろすこともできます。
これがあなたの信念が創り出し あなたが経験している個人的な現実です。
人によってはこのレンガの壁の前で、 完全にやられてダメになり
不幸せで、落ち込んでいて、 望みのない被害者として横たわっています。
でもご存知ですか、
レンガの壁は、ただそこに 存在し続けているだけです。
それについて人々が創り出し、 経験している現実とは
何の関係もありません。
壁はいっこうに構わないのです。
では、このレンガの壁の代わりに お母さんをそこに置いたらどうでしょう?
あるいは意地悪な人を置いたら?
悪魔そのものならどうです?
そして、準備はいいですか?
あなたが創って経験している現実とは、 そのいずれも、何の関係もないのです。
あなたが自分の現実として 創り出し経験しているものは
正直に言って、 あなた自身の思いであり
それはあなたがレンガの壁や、お母さんや、 意地悪な人や、悪魔について持っている
信念に基づいています。
そしてその信念はあなたが創った プライマリーから生じています。
良い知らせは、レンガの壁や、 お母さんや、意地悪な人や、悪魔を
「ぱっ」と消すことはできなくても、
アバターの道具を使えば、レンガの壁や お母さんや意地悪な人や悪魔についての
あなたの思いや信念やプライマリーを
魔法のように「ぱっ」と 消すことができるということです。
するとあなたの人生が変わります。
これを「源であること」といいます。
あなたの意識を支配するルールは
共有された物理的宇宙を支配する ルールと同じではありません。
あなたのお母さんや、意地悪な人、悪魔は、
あなたが自分の信念や思いを変えたからといって、 変わるでしょうか?
彼等のあり方が、あなたのあり方への 反応だった場合に限り、そうなります。
もしそうなら、あなたが変われば、 おそらく彼らも変わるでしょう。
これが源であることのボーナスです。
よく見受けられることでしょう。
平均的な人間の心の中身を 全部取り出すことができたら
その中身の大半は 物理的宇宙の精神的コピーでしょう。
そしてこれらのコピーは あなたの信念に基づいて名札付けされています。
信念によっては、証拠があります。
覚えてますか、事実とは 疑う余地のない証拠で証明された時に
健全な心が信じるものです。
でも大半の場合、私たちの信念の証拠は 自分の主観的確信でしかないのです。
心の中の信念が、 疑う余地のない客観的な事実よりも、
主観的な確信によって 保たれていることが多いというのは、
それをどうにかする道を開いてくれます。
主観的な確信とは、 自分自身の現実を創る、
自分の経験を形づくる、 という話に該当する領域です。
もしあなたの気分が良くなるために、 レンガの壁が消えたり、
あなたに謝ったりしなければならなかったら 大変なことになります。
それがお母さんでも同じです。
ですから私たちが関わる領域は、 確かさや個人的確信であり
事実にもとづいた知識としてみなされる 分岐点の上に位置しています。
それは個人的な現実です。
個人的な現実を管理することに 価値があるのは、
私たちの人生の経験が 全てそれにもとづいているからです。
ではアバター前のあなたの信念は どこから来ましたか?
どんな状況のせいで それを創ることになったのですか?
では、質問させてください:
「あなたは答えのない質問をいくつ持っていますか?」
神は存在するのか?
宇宙に正義はあるのか?
死んだらどうなるのか?
善はいずれ悪に勝利するのか?
善は報われるのか?
悪は罰をうけるのか?
物理的宇宙より もっと根本的なものがあるのか?
さて、これらの質問に対する 私の正直な答えを言いましょう。
容赦なく正直になります、 いいですか?
この事実は健全な心なら信じざるを得ませんが、
「私にはわかりません。わかりません・・・」です。
私がなれる限りの正直なところです。
私にはわかりません。
「わからない」は、正直ですが、 あまり満足感がありません。
「わからない」というのは、 心の枠組みとして心地よいものではありません。
あなたは本当にわかっていない人と みなされたいですか?
「あのハリーってやつは、 何にもわかっていないんだ」と。
でも彼らは正しいのです。
私はわからないばかりか、 他の誰にもわからないのではないかという
疑いをますますつのらせています。
私が信じようと思う答えはありますし
主観的に確信のある答えもありますが、
その答えに全員が 同意するわけではありません。
私を含め、多くの人が、その人たちの答えで
あなたの「わからない」という部分を うめようとするでしょう。
彼らにしてみれば、 あなたを「わからない」から救おうという
意図的な親切なのかもしれません。
あるいは、あなたの同意を得ることで 彼らも安心しているのかもしれません。
又はあなたに何かを信じさせることに 隠された意図があるのかもしれません。
「わからない」というプレッシャーを軽減するのが、 信じることの効用です。
宗教は、非凡な個人が入手した 聖なる真理によって
あなたの「わからない」をなぐさめます。
そしておそらくあなたは それを受け入れるでしょう。
なぜなら、まず神聖なものにけちをつけたくないし
次に「わからない」と言うより 気分がいいからです。
宗教の核心にあるのは 特定の答えを信じて受け入れることです。
わからないので、 1つの答えを信じて受け入れることです。
それは「あなたの隣人を愛しなさい」 というような良い答えかもしれないし
「異教徒は全員殺せ」というような、 悪い答えかもしれません。
なぜこれほど多くの人が教え込まれているか、 少し分かってきましたか?
答えは貴重です。
例えそれが全くの作り事で、 自己妨害的な信念へとつながるものだとしても。
学校で当てられたときのことを 憶えていますか?
例えば先生が質問してきます。
「ローマの用水路はローマ崩壊に どの様に貢献したでしょう?」
まさか「わかりません」とは言えませんよね。
そこでとても賢く聞こえる答えを 何か創り上げます。
でも正直な答えは・・・ あなたにはわからない、ということです。
あなたから答えを期待している先生は、 不正直ではありませんか?
あなたが恐らく一度も読んでいない 教科書に書いてあることを、そのまま言えれば
先生は喜ぶでしょう。
でもこの教科書を書いた人には 本当にわかっていたのでしょうか?
彼は現場にいたのでしょうか?
彼には疑う余地のない証拠があるのでしょうか それとも単なる憶測を言っていて
彼の答え信じるように あなたに頼んでいるのでしょうか?
「私にはわからない」という状況は、 答えを憶測させたり、想像させたり
他者の答えを受け入れたりさせる プレッシャーとなり
究極的には、主観的に確信の高い プライマリーを創らせ
それがその人の信念になります。
あなたが誰かの意見を事実として 同意してしまったのに
実はその人は本当はわからず推測していただけ、 というようなことが何回ありましたか?
さらに良い質問は:
あなた自身について、 あるいは他の誰かについて
誰かが、本当はわからずに 単なる意見として言ったことに、
同意してしまったことはどの位ありますか?
ですから自分たちを騙すのを止めて、 とにかく目を覚まし
私たちは誰かが答えとして推測したものを、
たくさん信念として持ち歩いているのだと 認めましょう。
そうした推測に家族や友達、先生や社会が、 彼等の目的に役に立てるために
あなたに信じて欲しいと思った情報を加えると
近代教育ができあがります。
「果たして科学と宗教が 一致することはあるのだろうか?」
「奇跡は本当におきるのだろうか?」
「生命を発明したのは誰なのか?」
「真理とは何か?」
ご存知の通り、私にはわかりません。
本当にわかりません。
「わからない」というのは、あなたが持つ 特定の真理の下に横たわっています。
あなたが信念を決定する 直前の瞬間に存在する状況です。
そしてその状況を再び経験してはじめて、 本当に信念を変えることができるのです。
「わからない」は、あなたの個人的な現実の中に 新しい信念を創り探検するスペースを創ります。
「わからない」は探検や冒険の動機になります。
覚醒した星の文明®に生きるのはどんな感じでしょう?
ここに鍵となる質問、 そして個人的責任を取る元々の理由があります:
ある信念より、他の信念を信じた方が、
あなたの人生はより良く、より幸せに、 より成功し、より安全になりますか?
ほとんどの人は「はい」と答えます。
あることを信じた方が、 他のことを信じるより、
私の人生は良くなります、と。
彼らが現実を形づくる際に 使う基準が「より良い」です。
より良いこととは何かを本当に決めるには たくさんの経験と知恵が必要です。
それについては 来月するこのトークのパート2で探究しましょう。
最初に出てきた質問の中に 「この宇宙に正義はあるか?」というのがありました。
私にはわかりませんが、 それがあると信じる方を好みます。
何かを信じたからといって それが皆にとっての真実にはなりませんし
全く違うことを信じる人も いるかもしれません。
信念について議論するのは、 お互いが不正直であるということです。
というのも、もし正直なら
それぞれの信念を取り入れたのは 「わからない」への解決策としてだと合意できるからです。」
自分たちの間にある違いは、 信じる内容の違いだけであり
そうした信じる内容は簡単に 創ったり消したりできるものだと気づく時
正しいとか、間違っているとか、 主張するゲームが終わりをつげ、
共に創造するというゲームがはじまり 世界に平和が訪れます。
この気づきをもたらすことが、 アバターの使命です。
アバターをする前は、多くの人は
自分が信じていることを コントロールできることを全く知りません。
彼らは誰か他人の利益になるような 信念を教え込まれ
そうした信念に疑問を持つと 良心の呵責に苛まれます。
ですから自分の信念に 個人的責任を取るというのは、
大きなステップで、 時には危険な場合もあります。
並外れた勇気、慈しみ、叡智が必要です。
「母国の政府の命令で誰かを殺しても、 やはり殺人になるだろうか?」
「自分の宗教のために誰かを殺しても、 やはり殺人になるだろうか?」
自分の信念について 個人的責任を目覚めさせることは、
人によっては強烈に恥ずかしいことです。
中には何とか眠りに戻ろうと、アルコール、 ドラッグ、仕事、社会的規範を使って
自分を無感覚にして 気づきを閉じていきます。
場合によっては、個人的責任を 奨励する人や集団を批判します。
というのも個人的責任とは 彼らには罪悪感や非難と感じるからです。
多くの人はまず 告白と許しを何回もしなければ、
個人的責任について 考えてみることもできません。
私たちが人間として共有していることの1つは
わからないことが本当にたくさんあることです。
私たちがそれを統合し認めれば、 世界はもっとスムーズに回り始めるでしょう。
アバター的な観点がこれです:
「私は本当にはわからないけれど、 あることを信じた方が、より良く、
スムーズで、楽しい人生が 送れることを発見している。
また他の違うことを信じた場合、 苦しみと不調和がもたらされることに気づいている」
十分に長生きすれば、 あるいは十分な数の過去世を思い出せれば
どんな信念が人を幸せにし、より不安無く コントロールできるようにするかが分かるでしょう。
又どんな信念が 苦しみにいたるかも学ぶでしょう。
これは知識ではありません。 これは知恵です。
次のマスターコースでは、 意図的に生きることへつながっていく
気づきの段階をみて
役に立つ信念を選ぶための 実証済みの基準をご紹介します。
その時まで、親切心と慈しみを 皆さんのガイドにしてください。
覚醒した星の文明の創造に貢献してください。
そして私が皆さんを愛していると 知っていてください。ありがとう。
アバターコースについての詳しい情報は www.TheAvatarCourse.comから
アバターマスターにご連絡ください。
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