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Janが前回の礼拝でお話をしてくれました。
説教初めてだということです。
今日は来ていませんね。
多分、娘さんを飛行場まで見送りにいっているのでしょう。
Janは神様との個人的な関係についてお話ししてくれました。
この続きをお話したいと思います。
信用について話します。
とても重要なことだと思います。
信用がなければ、
何かと関係を持つことができません。
何かを信用するということが最初の段階です。
信用がなければ、そのものをどうすることもできません。
信用とは信頼に関係があります。
何かに依存することです。
または、何かの善を信じることです。
別の言い方ですが。
あるものの善を信じるということはつまり...
子供についての研究者があることを考えつきました。
信用とは子供が母親に感じるものです。
幸せな関係から子どもは信用を感じます。
母親は子供に必要なことを満たすために何でもします。
子どもたちは皆これが好きですよね。
ええと、
いないいないばー。!スウェーデン語ではなんと言いましたか?
スウェーデン語では? 思い出せません。
なんと言いましたか?
Peek-a-boo(英語)
それです。スウェーデン語では、知りません。("Tittut!")
とにかく、若いお母さんが子供とこの遊びをするのは気分最高です。
孝明と明実は私の眼を見るだけでとてもはしゃぎました。
まるで私の顔が世界中で一番いいもののようでした。
それまで自分にあまり自信がなかったとしても
自分に良い自信が持てます。そのことがわかりました。
とても素晴らしい経験です。
まだ子供がいなければわからないかもしれませんが、とてもいい経験です。
とにかく、信頼と信用があることを経験しました。
お母さんと子供の関係の中からそれは始まります。
とても重要です。
信用は鍵となる概念です。
先に進む前に、一冊の本を紹介したいと思います。
スウェーデンの信用の実情。
ある人がスウェーデンの信用度を国際的に比較調査しました。
スウェーデンの信用度というものは高いものだそうです。
歴史的な理由だからでしょうか、それとも私達はほかの人々を助けてきたからでしょうか。
けれどもSundbyberg and Malmöは特別です。
何が一体特別なのでしょうか?
特にスウェーデンのこの二つの地域では、
彼らは33のコミューンを調査したのですが、
まさしくこれらの場所が、
スウェーデンで信用度数が一番低いのだそうです。
私達は世界の中で間違った場所に住んでいるのでしょうか?ちょっとわかりません。
信用を高めなければなりません。
スウェーデン全体での信用というよりは多分地域に根ざした信用を考えなければならないでしょう。
何かが変だと人々は感じています。
ですから取り組むべき課題があります。
私達の観点から、宗教的観点からもっとみてみようと思います。
彼は初期のころからの教会員です、金栄輝先生です。
文先生と親しい関係をお持ちです。
私達の運動ではよく知られたことですが、
彼は文先生のことをよく話されます。
神様は常に私達を信用しようとしていたことを知っています。
もう一度機会を与えてくれます。
実際には数多くの機会を与えてくれます。
いつもそうでした。
幾度も機会を与えられました。
文先生も同じでした。
これは彼のとても重要な性稟です。
彼は他人を本当に信じました。
これは多くの人々を苛立たせました。
彼はこのようにしたのです。
人に何かをするように頼みます。
例えば、指示をするとか多くのお金がかかる場合もあるでしょう。
建物とか教会を造りなさいとか、何か。
それでですね、ご存じのように、時々お金を受け取った人が失敗したり、
お金がどこかへ消えてしまったり、
失敗して何も起きなかったりしたものです。
その後その人が戻ってきます。
しかし文先生はうまくやらなかったから出て行きなさいなどとは言いませんでした。
かわりに、
その人を歓迎し慰めるのです。
もう一度投入するのです。
文先生は、その人を諦めはしないのです。
たとえ、その人に間違ったところが多くあり、失敗したとしても。
常にもう一度機会があるのでした。
多くの教会員が怒りました。
Hansが頷いていますね。
どうしてそのようなことをするのでしょうか?
効果的な組織というのはこのように運営することは不可能です。
ありえません。
人材とお金の浪費です。
けれども文先生は私達を信用したいのです。
私達が神様を信頼しようとするように。
私達も神様を信頼しましょう。お互いに信頼しあいましょう。
文先生は私達に不信の概念を教えません。
そうではなくて、彼は私達が何があっても互いに信用するようにと続けるのです。
このことを回復しなければならないのです。
金英輝先生はこのことを言われています。
金英輝先生の言葉をもっと読んでいきましょう。
1985に日本教会員に語ったものです。
彼が信用について片っと土岐のものです。
同様に私達も信用の姿勢を持たなければなりません。
信仰と信用は同じです。
神様と人との間の相互信用は人の間の信用の基盤となるものです。
神様への信仰が信用の基盤であるがゆえに、堕落の結果神様への信仰だけでなく
人の間の信用まで失ってしまったのです。
この世界は不信の世界となってしまいました。
信用がない所には平和も協調も統一もありません。
約束を守り履行することはこの堕落世界では異様なことのようになってしまいました。
真の姿勢とは約束を守ることです。
今は不信に満ちた堕落世界です。
それではどのようにして信用を回復することができるのでしょうか?
信用できるためには、神様を信用しなければなりません。
彼が第一条件です。
神様を信用できなければ、誰も信用できません。
神様は絶対です。ですから私達が神様を信用できなければ、
如何にしてほかの人を信用できるのでしょうか?
私達の親を信じますし、私達全員は一人の親の子女です。
ですから、私達は互いに信用し合えるのです。
お互いに信用し合える関係を築かなければなりません。
神様がそのように願っているのです。
もし誰かを信用するのが安易でなければ何かがおかしいのです。
誰かを信用する時に確かで落ち着いていられる関係を築く必要があります。
そして最後に。
どのようにしたらそのような信頼関係を築くことができるでしょうか?
両方がある一定の基準を持っている必要があります。
相互信頼関係を築くためには
神様の本質を備えた男性、女性にならなければならないのです。
すなわち、神様の心情、愛、知恵です。
そしてみ言葉を知らなければなりません。
ここで彼は信用される人になりなさいと語っています。
しかし先ず、神様を信用しなければなりません。
これが最初の電解です。
神様を信用する人にならなければなりません。
それで、私達の間の相互信頼を回復できます。
これはどうしても回復しなければならないものです。
イエス様は地上を歩きまわりました。
絵が見えますか?
イエス様は何時も人々の信用と不信との軋轢で苦しみました。
不信と信用。
これは、カペナムでのローマの将校のお話です。
このローマの将校はある問題を抱えていました。
男の子の僕が病気で、体が麻痺していました。
彼もまたこの影響を受けていましたし、家族全体も困っていました。
彼はイエス様のところにきて奇跡を望みました。
当時イエス様は人々を癒していました。
人々が彼の周りに集まっていました。
この話にはいくつかの違った見解があるようです。
一つの問題はこのローマの将校は彼がローマ人であったことです。
彼はユダヤ人ではありませんでした。
別の見解ではイエス様は彼になぜ来たのかと聞いています。
彼はユダヤの人ではないというのです。
どういうことでしょうか?
けれども将校は諦めません。
彼はイエス様以外にその僕を助ける事ができる人はいないと感じていました。
この将校は大きな信頼をもっていました。
彼はイエス様に言いました。
私は将校です。
私の下に多くの兵士がいます。
私が彼らに命令を出せは、
そのようになります。
全ての兵士は私が言う通りにします。
けれどもあなた、イエス様は、
あなたも同じ権能を持っています。
ただ、立って健康になりなさいとだけ言えば、
私はもうこのしもべが健康になることを知っています。
私の家に来る必要はありません。
そうです。
ただそのようにここで言ってください。
イエス様はこのことにとても感動しました。
イエス様はいつもこのことに悩んでいたからです。
彼は人々のところに行きましたが、彼らは彼を信頼しませんでした。
するとこのローマの将校が来て、彼はユダヤ教の信仰も持っていないのに、
無条件に、イエス様にただ命令してくださいと願ったのでした。
そしたら少年は助かるだろうと。
イエス様は言われました。このような信仰は地上で見たことがないと。
とても素晴らしいことです。
ときどき私は、これはイエス様の死後おこることを象徴していると考えます。
多分あの中東地域では信仰はあまり育たなかったかもしれませんが、
世界中でイエス様への信仰が育ち、
キリスト教は大いに発展しました。
イエス様が示されたように、言葉は実に偉大な力を持っています。
そして信仰は山を動かします。
信仰は様々な面を持っています。
物事についての深い知識を得ることを信じることもできるし、
霊的知識を得ることを信じることもできます。
これも信仰の一つです。
または、強い将来展望をもつこともあるでしょう。
将来に対する強い夢を抱きます。
これもまた強みです。これもまた信仰です。
または、心にただ従っていくというのも。
しかし、信頼というのは特別な関係です。特別な信仰の形です。
この概念が全てです。
これはほかのどれよりも神様と人との関係に関連しています。
ですから信頼は鍵となる概念なのです。
この写真のようなことはよく見かけます。
私はKistaに住んでいます。
牛乳とか何かを買い物に行くと
少なくても三人の乞食に会います。
私が若い頃、
例えば、高校生の頃は、
時に、Södra Latin の生徒さん達が今日見えていますが、
högstadietの頃だったかもしれませんが、
スウェーデンは今とはとても違っていました。
誰かが本当にお金に困っている人を路上で見かけたら、
別に何も見返りを求めません。私だけではありません。
何かあったのです。
人が路上でお金を下さいと頼んでいるときは何かが本当にあったのです。
それは私だけの経験ではありません。
私の同級生の Anne も同じように考えていました。
別に彼女は基督教や他の宗教のの信仰生活をしていたわけでもありません。
ただ...
信頼というものがあったのです。
私はこれを言いたいのです。スウェーデン社会には信頼があった。
もし誰かが本当に助けを必要とし、それを表現しているのであれば、
それは、その人が本当に助けを必要としているということでした。
ですから、援助するのは自然なことでした。
しかし何かが起こったのでした。
あるとき、私はその友達に町のどこかで会うことになっていました。
彼女は中央駅を通り過ぎました。
そこでお金を乞っている女性に会いました。
友達はお金を引き出してその女性にあげました。
そして、私に会ってからそのこと話してくれました。
すると、彼女は突然石のように凍りついたのでした。
その時の様子をはっきりと覚えています。
私もその女性に施したのです。
私達は何か尋常ではないことが起こったことに気がつきました。
彼女は騙されたのです。
誰かが彼女のお金を取ったのです。
もちろん彼女は自由意思で上げたのですが、とにかく騙されたのです。
彼女のその時に眼付を覚えています。
彼女の言葉も。「騙されるなんて、私はなんという間抜けなのか。」
私達は騙されることに慣れていません。
そのようなことはありませんでした。
すると、一つの問題が持ち上がってきます。
もし誰かが助けを必要としている場合、助けるべきでしょうか?
助けるべきでしょうか? 彼らを信用できるでしょうか?
この出来事の後、私は覚えていますが、
人が私に寄ってきて、
私はいかにも騙されやすく間抜けに見えたのでしょう。
そう思いました。とにかく。
彼女は騙せるとその人たちは考えたのでしょう。
けれども何年もの間、意識的にあえて、助け続けたのです。
もちろん私はその人たちが嘘をついていることもだまそうとしていることも知っています。
けれども私自身のために。
私は信用を大切にしたかったのです。
信用が生き残って欲しかったのです。
信用が死んで欲しくなかったのです。
彼らがたとえ嘘をついているとしても信用することを選びました。
これらの人々を信用することを選びました。
助けることを選びました。
長い間、このように生きていきました。たとえそれらの人々が何を考えているにせよ何が目的であるにせよ。
とにかく私は彼らを助けました。
もちろん、かわいそうなルーマニアの人たちです。お金がないのでしょう。
けれどももっと心配なのは、彼らを通り過ぎる私たちにどのような影響があるかということです。
不信な感情を持ち、彼らは本当にお金が必要なのではないと思ったらどうでしょうか。
そうしてしまったら、私達の内部が壊されてしまいます。
彼らは様々な問題を抱えています。
どうしたら解決できるのか私にはわかりません。
けれども、私達の霊的問題でもありますし、私達はこれに取り組まなければなりません。
今日はこのことについて話し合いましょう。
文先生は言いました。
皆さんは、神様に代わって心から本当に信じることができる一人の友人をもたなければなりません。
さらには、神様に代わって信じることができる一つの兄弟、父母、夫婦をもたなければなりません。
そのようにして、家庭を超えて、社会、国家、世界の舞台にまで伸びていかなければなりません。
これが神様の願われた希望だったのです。
しかし、神様は、人間を個人の立場で追い出され、信じることができない立場に立てられ、人間世界のいかなる希望もすべて絶たれた中で、人間をして神様を信じさせるようにされました。
そのようにして、その信じる人が一つになって、すなわち兄弟同士、友人同士で、神様に代わってお互いに信じ得る関係を結ぶことを神様は願われたのです。
これがまさしく神様の願われた最高の希望なのです。
ここで説明されているように、神様の夢は私達が彼、天の父母様をを完全に信頼することです。
けれども、
それを実現するためには先ず私達の間において信用を実現しなければなりません。
信頼できる人々を見つける必要があります。
もちろん、処女は親を信じます。
しかし私達はそれ以上行かなければならないでしょう。
近い家族を超えてほかの人々も信頼しなければなりません。
そうすれば拡張できます。
全ての壁が消え去るでしょう。
信頼できる人を見つける戦いです。
私達が信頼できる人になることが神様の夢でした。
神様がどうしてきたかここに説明されています。
信頼できる人を送る代わりに、かえって難しい人を送るのです。
本当に厄介です。物事がとても難しくなります。
そういうときこそ、信頼できるかどうかがはっきりしてきます。
このようの状況下で、違いがはっきりしてきます。
金先生によれば、これが神様の戦略でした。
神様の希望は私達が神様を信頼しまたお互いに信頼しあうことです。
今日の質問を読んでみましょう。
信頼の欠如によってどのような影響を受けるでしょうか?
堂のようにして信頼を高めることができるでしょうか?
ほかの質問を考えてもいいですよ。
では始めましょう。
いつものようにいくつかの組に分けましょう。英語の組もつくりましょう。
10分間話し合いましょう。
各組で話し合ったことを書き留めてください。
後で組ごとに発表していただきます。
この件に対してです。信頼。
信頼や不信についての経験について分かち合うのもいいでしょう。
ありがとうございました。