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【 心の本質 】
~ 第3部 ~
~ 安心の必要性 ~
これはJ.クリシュナムルティと―
その他の人々による一連の対話です
これらの議論の目的は 心の探求です
心理的無秩序とは何か?
心の変容に必要なものとは何か?
クリシュナムルティ氏は 宗教哲学者として
これらの問題に長年携わってきました
米国、英国、インドでは
小中学校を設立しました
ディビッド・ボーム氏は倫理物理学者
英国のロンドン大学の教授です
倫理物理学などに関する本を
多数 執筆しています
2人は以前―
様々な対話を行いました
ルパート・シェルドレイク氏は生物学者
彼は最近『形態形成場』という仮説を
本の中で提示しました
現在 インドの国際作物研究所に―
植物生理学者の意見を
求めています
ジョン・ヒドレー氏は精神科医
クリシュナムルティ学校に
過去6年間携わってきました
最初の2回の対話では―
次のことを考察しました
自己同一化の過程―
苦痛の問題―
思考と記憶の役割
イメージ そして 意識の唯一性と共通性
これらの過程を観察できるのか?
観察と秩序、責任、変容との関係とは?
今回 重点的に取り組むのは
絶対的な安心感の有無についてです
揺るぎない安心感は あるのでしょうか?
自我をなくすことは 可能でしょうか?
あなたは言いました
もしそれが可能なら
そのとき問題が…
なぜ安心感を求めるのです? 身体の安全以外に
地球の安全以外に…
なぜ安心を求めるのか
平穏な瞬間を知っていて
それを確かなものにしたいのです
すぐ それは記憶になります
真の安心ではありません
幸せだったときの記憶があり
その時に戻りたいと思います
または観念を投影し いつか得たいと思います
しかし なぜ 恐らく世界中の人間が―
安心を求めているのか? その理由とは?
なぜ安心を必要とするのか?
なぜ心理的な安全を求めるのか?
問題に占領されているからです
もし問題を解決できれば
もし答えが見つかれば…
それは安心ではありません
そこには大きな不確実性があり―
大きな虚無感、孤独感があります
本当の孤独… 例を挙げてみましょう
はい
例えば 結婚して子供がいても―
依然として 疎外感を抱き 孤独を感じます
それは恐ろしく 憂鬱なことです
そして私は 孤立していることを実感します
結局 孤独とは分離の本質で
誰とも関係してないのです
それが安心を求める理由の一つですか?
はい それを埋めるためです
もっと深い理由かも
自分の満足感を確保するため…
自分の恐怖、 苦痛から解放されるため
それらから解放されて 完全な平穏と幸福を―
確保したいのです 違いますか?
だから安心を求めるのでは?
長期にわたった安定を
変わらない安定… そんなものがあるとして―
それが安心を切望する理由ですか?
はい
つまり 恐怖から解放されれば 完全な安心感が得られるわけです
適切に機能するために?
適切な機能は後で生じます
と言いますと?
安心なら 私は機能します
仮に 何が真で何が偽か 強い固定観念を持っていれば―
私はその原則に従って行動します
しかし 人間はこの根深い恐怖を
解決することができずにいて―
未だに解決していません
‐その通りです ‐心理的な恐怖を
なら それから解放されれば 素晴らしく安心なはずです
つまり 根本的に―
解決できるなら?
でなければ 完全な安心は得れません
はい…
では 身体的な安全… 衣食住といったものは―
心理的な領域に 影響を及ぼしますか?
どうですか?
つまり ある程度の安心感の欲求は
そこからやって来ると?
人は衣食住を必要とします
それは不可欠なものです
絶対的に
衣食住を求めるうちに 心理的にも同等の安全を―
欲するのでしょうか?
結び付きがありそうです
ええ 実際にそうなのか?
ええ…
あるいは安心感への欲求が 身体的安全を妨げているのでしょうか?
安心感への欲求は―
現実の中で 機能するために生じるのでは?
私は心理的な安心感を 得たいと思います
はい
それで団体、社会、国家に所属します
はい
そして それが安全を妨げるのです
『安全』とは 長期的に持続する安全です
しかし心理的な安心感の探求の中で―
もし国と同一化するならば まさにその分離が―
私を破壊するのです
なのに なぜ安心を求めるのか?
つまり同一化や所属は
間違いであって
そこに安心感を求めることは―
根本的に間違っていると…
いえ 正しいとか 間違っているとかでなく
尋ねているのです
人間がそうする理由を
特定の地域だけでなく―
全世界がです
全人類が欲しているのです
揺るぎない安心を
なぜでしょう?
理由はいくつかあります
例えば 幼い子供や幼児は―
両親に愛される必要性を感じていて―
ある段階になると―
ある種の安心感を必要とするようです
しかし両親にあまり面倒を 見てもらえなかったせいで
喪失感、孤立、分離を 感じるようになり―
そして 安心感への欲求が生じます
幼児には安全が必要です
はい 心理的にも身体的にも
ええ 必要です
しかし成長とともに
それは変わります
小さな幼児や 幼い子供などは―
保護されなければなりません
あらゆる点において
心理的に
愛情を注ぎ 膝に乗せたり
抱きしめたり 手を握ることで
幼児は愛されていると感じます
面倒をみてくれる人がいて
安心だと感じるのです
そして成長すると必要としなくなる
そうです なのに成長するにつれて―
世界に向き合うにつれて なぜ安心を切望するのか?
最初に愛を得れなかったからでは?
その通りです つまりそれが問題だと?
まあ原因の一つでしょう
実際には愛がないから?
本当に愛があれば
安心の必要性はありません
考えもしないでしょう
私が本当にあなたを愛していれば…
利己的な理由からではなく…
本当に深い愛情を 誰かに持っているなら
安心が必要でしょうか?
私の責任は あなたの安心を考えることで
求めたりしないはずです
しかし人間は求めます ということは―
他を愛していないのか?
つまり我々が愛しているのは…
愛する理由は打算です
はい
安心感を与えてくれるからだと
そうです それで… 率直に言って なぜなのでしょう?
なぜ安心を欲するのでしょう? 十分な満足を感じるために
恐怖、不安、 苦痛などを感じないように
恐怖が原因なのでしょうか?
既に言及された通り
成長過程で愛されなかった幼児は
安心感を必要とし それを覚えていて
大人になってから得ようとします
保護されなかったので
恐怖感があるからです
もしくは無意識に―
知っているからでしょうか? 自我、エゴとは―
非常に不安定なものであることを
本質的に不安定だと?
本質的に不安定なので―
それ故に 内にも外にも 安全に対する不安があるのです
なぜ非常に不安定だと?
違いますか?
我々の意識は 不安的ではありませんか?
しかし もし何かが手に入れば―
安定するかもしれません
そして そこには矛盾があります
安定しないかも
安定しないかも?
でも いずれ安定します
いいえ
もっと根本的に見て―
この自我そのものが 変動の状態にあるのではありませんか?
不確実性、執着、 執着することへの恐れ―
それは安定が欠如した状態です
ですから―
人間は無意識のうちに―
自我の不安定さを知っていて
安心を求めるのでしょうか? 神や救世主などを…
絶対的なものを
ええ 完全な満足感を 与えてくれるものを…
我々の意識とは その中身そのものです
違いますか?
そして その中身は 常に矛盾しています
何かを信じる一方
信じるのが怖いのです
だから不安定だと?
どう見ても不安定です 明らかに不安定です
何かを欲しても 反対の願望が現れて
矛盾を引き起こすのです
そこには二重性、 恐怖、快楽、死への恐怖があります
意識の中にある全てのものが…
我々の意識の中身はご存知でしょう
だから不安定なのです
それをわかっているから 人はこう言うのです
“この問題は複雑すぎて―”
“手に負えない”
“順応するしかない”と。
しかし その順応の中にも また安定の欠如があります
だから無意識に安心を切望していて―
神を創り出したのです
安心を与えてくれると―
思うものを…
神は我々の創造物です
神が我々を創ったのではなく…
逆なら良かったのですが…
だから 安心への 空虚な欲望があるのです
空虚な欲望?
安心を求めて創作するからです
なるほど
では もし意識の中身を 変えることができるなら―
安心を必要とするでしょうか?
もし矛盾がなくなれば?
ええ 矛盾がなければ…
精神が安定して
安心が得れるかも
なら 安心を求めないかも
失礼ですが 安心感とは実に嫌な欲望です
何に対して 安心するというのでしょう?
個人的に私は 安心を求めたことがありません
安心を求める必要がない理由は
私の世話を周りの人が
してくれるからではなく 必要としないからです
もちろん衣食住などは
必要ですが…
心理的な話をされている
ええ より深い話です
意識の矛盾がなくなれば
安心を求めなくなると?
その意識は―
我々が知っているものとは
全く違うものかもしれません
我々が知っているものと言えば 恐怖、報酬、快楽―
そして死―
人間関係の対立です “愛してる”とは言うものの…
制限がある…
それが愛と言えるのか…
つまり意識の中身はそんな具合です
それが私です その意識が私自身なのです
この複雑で矛盾していて 二面性がある存在…
まさにその現実が 安心への要求を引き起こすのです
ええ
では 自我を消せるでしょうか?
自我ですか?
まるで内側に誰かが居て 何とか矛盾を―
消そうとしてるみたいです
それは あなたが 意識とは別物であるという意味です
ええ…
しかし あなたが意識なのです あなたが恐怖、快楽―
信念であり すべてがあなたなのです
どうか―
私の考えに同調しないでください
すべて たわ言かも
ほとんどの人は
同調しないでしょう
そうでしょうね
大抵の人は―
見向きもしません
つまり 別の自我があって
それが矛盾を解消するのですか?
まさか!
しかし 錯覚かもしれませんが―
我々は問題とは別の存在で
自分の中の何かが
決断をしているように感じます
私は自分の恐怖と別物ですか?
私は自分の苦痛、絶望から 切り離された存在ですか?
自分の中の何かが
それらを観察できることが
別物である証拠です
つまり観察者は 観察されるものとは別の存在だと?
‐はい ‐そうでしょうか?
しかし そう思えます
そう思えるから問題なのです
私の実体験や 他の人の体験によると―
実際に観察者がいるみたいに
自分の恐怖や反応などを 観察しているんです
例えば 不眠症者の場合―
自分の中の一部分が
グルグルと考え事をしていて
他の一部分は―
寝たがっているんです
ですから我々は実際に
分離を体験しています
つまり これは持論などではなく―
事実です
同感です
だが なぜ分裂が存在するのか?
誰が生み出したのか?
事実である可能性も…
何です?
‐事実かも… ‐では確かめましょう
ええ つまり意識にレベルがあって―
あるレベルが 他のレベルを
観察してるんですか?
考えて下さい 恐怖と私は別のものですか?
私は恐怖に取り組み 恐怖を抑圧し
合理化し乗り越えるかもしれませんが 恐怖は私なのです
恐怖に取り組もうとするときのみ
分裂を生み出すのです
しかし私が恐怖なのです
普通に分析すれば―
恐怖とは感じるもので 自分とは別のものです
恐怖を感じたくないので
そこから抜け出そうとし
何とか乗り越えて逃れるものです
これが普通の考え方です
その何が悪いのです?
葛藤を持続させます
彼はそれが必然だと言ってるんです
‐必然かもしれません ‐本当に?
では なぜ必然ではないと思うのですか?
まず第一に 怒りがあるとき 怒りの瞬間は―
分裂がありません
違いますか?
非常に怒っているときは
我を忘れてしまい
怒りそのものになります
その瞬間 そこに分裂はありません
分裂は後から生じます
“私は腹を立てている”と。
さて なぜこの分裂は起こるのか?
記憶によって
ええ 以前怒ったことがあるからです
つまり 過去が審査をしていて―
過去が認識するのです
つまり過去が観察者なのです
明白でないかもしれません
例えば 制御できない体の反応があり
手や体などの…
私はそういった身体反応を見て
元に戻したいと思います
それと同じように―
心の反応が制御不能になり
一瞬 制御から外れてしまい
元に戻そうとするのです
多くの人には そう映っているかもしれないのです
それで…?
ですから明白ではありません
この場合はどうなんですか?
私が指摘してることが
明白でないようですが
人が本当に驚いたとき―
自己は恐怖から分離しません
時間の隔たりがあるとき 分裂が生じるのです
時間の隔たりとは思考です
思考が入り込むとき
分裂が始まるのです
なぜなら思考は記憶であり―
過去だからです
思考は記憶を伴います
ええ その他のものも
つまり思考、記憶、 知識とは過去のものです
したがって過去が観察者なのです
それが分裂を生み 制御するのです
ゆっくり行きましょう
観察者とは 現在であるように思えます
過去から未来を予測し
今ここで心配しているのでは?
しかし その心配は 過去からの反応です
そんな経験を以前 したことがあるからです
‐恐怖を感じたことがありますか? ‐もちろん
本当に身震いするような 衝撃的な恐怖を―
体験したことが?
はい
そして その瞬間 そこに分裂はなく―
あなたは恐怖で一杯になります
はい
その通りです
それから思考がやって来て “私は怖がっている―”
“これこれの理由で… 私は己を守らなければ”
と言って 恐怖を合理化するのです
議論するまでもありません
体の反応の話に戻りますが
それもまた あなたを圧倒します そして次の瞬間―
思考がやって来て
“これは体の反応だ”
と気づくわけです
心の反応と同じことが
この場合も言えるのでは?
以前 同じ反応をしたので
対策が取れるわけです
何の話かわかりません
反応に圧倒されてから 思考が入り込むわけですが
さまざまな面において
それは正常な流れです
衝撃的なことが起きて 少ししてから―
“何だろう”と思うわけです
場合によっては
そうです
なら 体の反応も同じでは?
なるほど!
どなたか回答を…
散歩中にガラガラヘビに 出くわしたとします
あなたはガラガラヘビを見て―
飛び上がります
それは身体の自己防衛であり―
理にかなった反応です
恐怖ではありません
心理的な恐怖ではないと?
それも恐怖では?
恐怖ではありません
単なる身体の反応に過ぎないと?
身体の反応であり―
ヘビに噛まれないための 理にかなった反応です
しかし数秒後に そのヘビの正体が
ガラガラヘビではないと
気づくかもしれません
それなら そのまま通り過ぎます
思考がやって来ても問題ないと?
ええ
ええ
しかし怒ったり怖がる場合は―
思考が入り込むことは―
問題です
やっと質問がわかりました
なぜ問題なのか?
なぜなら恐怖は破壊的です
心や思考などを制約します
我々を萎縮させます
ええ わかります
恐怖の真っただ中では―
合理的に考えられません
そうですよね?
身の危険の場合は合理的です
恐怖の中では不合理になります
お聞きしますが―
なぜ我々は このひどい混乱を解消しないのか?
いや それは…
いいですか 我々の意識は混乱しています
ええ 混乱してます
混乱し 矛盾してます
ええ
多くの恐怖を抱いて 混乱しています
なぜこれを解消しないのか?
常にしようとはしています
いえ 問題があるのです 我々は心から認識しません
“この混乱した意識が私である”と。
それが私なら 私は何もできません
お分かりになりますか?
つまり自分と意識を
別物だと思っていると?
別物だと思っているからこそ―
常にそれに取り組むのです
しかし解消できないのは
混乱した意識が私だからです
では どうすればいいのか?
我々は常に取り組みます
混乱した意識に。
自分が意識だと理解すれば
取り組むことはできません
‐では どうすれば? ‐何もしない事です
なるほど
それが まったく違う点です
ええ 意識そのものに対する―
意識の取り組みが問題であることを
理解すれば それは止みます
それは非暴力とは違います
失礼します つまり我々は この混乱した意識とは
別個の存在であると
考えていますが―
その通り
称賛されるときは
分離しません しかし―
悪口を言われると
切り離そうとします
つまり―
かなり選択的であるに関わらず
混乱した意識とは別の何かが―
自分の中にあると感じていて―
我々は普通 意識の内容を変えようとするか
人や世界との関係を変えようとします
けど 分離のことは調べません
自我と意識の間にあるこの分裂…
我々はそれに疑問を持ちません
さて 我々が実際に経験するこの分離…
大抵の人は経験するわけですが
実は それが疑問を持つべきことで
混乱した意識が自分だと
我々は直視するべきなのです
明白なことです!
明白ではありませんし
自覚しにくいことです
普通 そのようには考えません
では―
その条件付けから 脱皮できるでしょうか?
その条件付けが私なのです
分離し その条件付けに取り組みます
しかし それが私なら―
取り組まないことが 最も建設的です
条件付けに取り組まないなら―
何も変わらないのでは?
ああ!
つまり それを認めることによって
向き合うことが…
向き合う? 誰が向き合うのです?認める?
誰が認めるのです? 我々の観点は常にこうです
“私はそれである”
我々は決して理解しないのです
完全に
“私の中に明晰な部分があり それが明晰でない部分に―”
“取り組もうとしている”
常にこの調子です
‐ええ ‐しかし実際には―
我々の意識の中身 すべてが曖昧で混乱していて
澄んでいる部分がないのです
我々はあると思っている
混乱していない観察者である部分が。
観察者が観察されるものなのです
教祖なども…
もしそうだとしたら
どのように取り組むのですか?
事実を理解するなら―
まさにその事実で十分です
その混乱したものが―
自分の混乱を理解すれば…
ええ それで片付きます
混乱したものが 己の混乱を理解すれば
混乱を解消できると?
ええ “私は混乱している” といった分離性の理解ではありません
意識が混乱しているのです
取り組むことはできません
混乱した意識に取り組むのは エネルギーの浪費です
それでは解消されません
この混乱をなくすために
必死に努力し 修道会にさえ入りました
けど解消されてません
ある程度しか…
それがもう一つの側面だと思います
どうやら我々には ある程度の知恵があるようで
特定の問題を解決し 明晰さと秩序を得ます
しかし しばらくすると―
問題は形を変えて
戻ってきます
または同じ形で
つまり全体的に―
何とかしなければ…
観察者が 混乱した意識に―
取り組む前にです
はい
“時間があれば いずれ解決するだろう”
それはエネルギーの浪費です
事実を理解するとき エネルギーの浪費は起こりません
つまり注意を払うことです
非常に興味深い話です
混乱した意識に取り組むことは エネルギーの浪費だと思いませんか?
ええ さらに無秩序を生み出します
さらに無秩序を生んで
私と私でないものの間に 対立を引き起こします
“私”とは観察者です
私は 混乱した意識と戦い 制御し抑圧し 不安になり心配します
本質的にすべてエネルギーの浪費です
ところが この混乱した意識が 私自身なのです
注意を払うことで 私は理解に至ります
‐“私”ではなく… ‐つまり意識自体が―
理解に至るということですか?
“私”ではなく
その通り
つまり完全な注意を 意識に払うことです
“私が”ではなく… 注意と不注意があります
不注意はエネルギーの浪費です
注意はエネルギーです
意識が混乱していることの 観察があるとき―
完全な注意があるときのみ その事実が現れるのです
そして完全な注意があるとき もう混乱は存在しません
不注意が問題を生み出すのです
反論してください
よくわかりません
つまり完全な注意とは
今この瞬間にあって
全く回想しない―
ということですか?
注意とはそういうものです
私があなたに注意を払うならば―
回想することなく…
感覚器である耳を使って 聞くだけでなく
別の耳をもって聞きます つまり―
あなたが言っていることに すべての注意を向けます
実際に この瞬間に
そこに中心はありません
注意と注意されるものが
一つになるからですか?
注意の中に中心がない理由は
そこにあるものが―
注意だけだからですか?
いいえ 混乱がある理由は 私が不注意だからです
そうでしょう?
“観察者は観察されるものである” という事実―
その観察があるとき―
その状態の中に
観察者は存在しません それが注意です
ところで瞑想について
論じたことはありますか?
関連がありそうですね
あなたが言っている事は ある程度起こり得ると思います
起き得ません ある程度の 混乱と非混乱を保持するなら―
同じ状況に逆戻りです
なるほど
しかし あなたが言う注意とは
素晴らしい美しさや音楽の中で
多くの人が時々経験するもので
我を忘れてしまうようなことでは?
このような経験の中で―
垣間見るものでは?
その通りです 例えば 山を見るとき―
その威厳、その深みが 我を忘れさせます
おもちゃは子供を没頭させます
山は私を没頭させ
おもちゃは子供を没頭させました
つまり外側に 何かがあるということです
我を忘れさせるものが
私を穏やかにするものが
つまり外部の媒体が 私を静寂にするのです
神や祈りの言葉、 崇拝している物事などが
もし私が外部の媒体を 完全に拒絶するならば
何にも没頭されなければ…
例えば 何かに没頭しても それが消えれば 我に返ります
ええ
つまり 私を没頭させる外部の媒体を
捨ててしまえば
元の自分に戻ってしまうのです
なるほど つまり ある程度しか起こらないのは
依存してるからだと…
その通りです
‐妻に依存するように ‐またはセラピーなどに…
様々なものに
ヒンズー教や カトリックなどに依存します
ゆえに依存が執着を求めるのです
これでやっと あなたが言ってることを
実践できます
できません あなたはまた行為してます
そこから何かを得ることを 期待しています
それではただの取り引きに過ぎません
そうではなく あなたが調べていることは
多大な考察を必要とし
多大な知力と注意力を
必要とすることなのです
なぜ世界は分裂、混乱してるのか
それは我々の意識が 混乱しているからです
そこで質問が生じます 自我をなくすことは可能でしょうか?
この混乱した意識を
意識の中身、さまざまな経験を
なくすことはできません
私の目が開いている限り
それで先程 注意についての話で
人が山を見るときの話が出ましたが
もし同じような注意を―
私が経験する全てのことに向けるなら…
ほら また! “私が経験する”
‐ええ でも… ‐あなたがその経験なのです
はい…
そうでしょう? つまり そこに経験はありません
あるのは注意だけだと?
経験は記憶をともないます
時間も… つまり過去です
故に経験者が 経験されるものなのです
もし啓発を求めているなら
もし悟りを求めているなら―
あらゆることをして 得ようとするでしょう
しかし悟りがどんなものか知りません
悟りについて 話を聞いたことはあっても
知らないものを探しているのです
ならば 心は完全に 自由でなくてはなりません
先入観、恐怖、混乱などから
ですから私の関心事は悟りではなく
意識の中身を―
取り除くことです
それが私の探求すべきことです
自分と意識を分離している限り
私はそれを経験し
分析し 取り組みます
それは私と意識の 絶え間ない葛藤を意味します
なぜ これらを 受容しているのでしょう?
なぜ ヒンズー教徒であることを
カトリックであることを
受容するのか?
なぜ人が言う事を受容するのか?
自分でも言います
いえ 自分で言うだけでなく
外部の人々によって
助長し 断続するです
なぜ受容するのでしょう?
生物学の勉強であれば 私は教授を受容します
私よりも知識があるので 授業に行き
彼の話に耳を傾けます
しかし彼は 私の教祖でも指導者でもありません
彼は生物学に関する情報を与えてくれ
私は勉強し 現場に出て
したいことがあるのです
しかし なぜ我々は―
精神的な権威を―
霊的な権威を受容するのか?
またしても安心の問題です
どうするべきか分からないので
教祖に頼るのです
私はその立場を拒絶します
しかし それが権威ではなく
責任だとしても 同じ問題に辿り着くのでは?
例えば私が父親で―
子供がいるなら…
指導が必要です
世話が必要ですよね
そして安全のことで 頭が一杯になります
子供を養うために…
仕事のことや
家のことなどで
その結果 権威からでなく 責任から
安全などに執着します
他人や子供のために
確かに
では どうなんですか?
責任を拒絶しろと?
もし私がお金を稼いでいるなら―
自分自身の面倒や
使用人や子供の面倒
恐らく彼らの子供のことも
私には責任があります
物理的な責任があります
食事や賃金を与え
子供をきちんとした学校に行かせたり
すべて私の責任です
でも それでは不安定な状況に
引き戻されてしまうのでは?
あなたは権威を拒絶していたはずです
なぜ霊的、精神的な権威が 必要なのか理解できません
もし自分で文字が読めれば
誰の助けもいりません
しかし『自分』という本を 本当に読もうとしたことがないので
誰かに助けを請うのです
そして全てを見失います
しかし彼が聞いているのは
もし他の人々に対して 責任を負うのであれば―
‐それに必要なのは… ‐収益力ですか?
‐つまり安全です ‐ええ 可能な限り
失業者が多くてはいけません
責任があれば 不安になるのでは?
なりません しかし もし私が使用人に
身の程をわきまえさせるなら―
使用人としてあしらうなら―
ええ
それは無責任なことになります
しかし使用人は去りますが 子供は去りません
家族ですからね
つまり こういう質問です
家族への責任があるにも関わらず
仕事が得れず 心配し始め
不安になる可能性も
あるでしょう?
私は心配しません 賃金を―
払えなくとも 使用人が残りたいなら
食物を分け与えます
家族への責任があるにも関わらず
失業しても 心を乱されないと?
乱されません
知的な解決方法が?
対処するのです
責任があるから心配するのです
それは心配とは言いません 私は責任がある
ええ
故に できる限り面倒をみます
もし できなければ?
‐そのときは? ‐できません
なぜ心配する必要が? “できない”それが事実です
大きな困難を目の前にして
心配事から完全に免れると?
ええ それが私の言っていることです
注意があるところに 心配事はありません
そこには中心がないからです
依然として問題はあり
責任もあります
ですから解決するだけです
もしできないなら?
なら できません
なぜ心配する必要が? 英国の女王になれますか?
なれません
では心配の必要が?
例えば あるインド人が
家族は餓えているのに
仕事が見つからず
でも心配しないんです
驚くことに多くのインド人が
実際に心配しないんです
しかし外部の人間から見れば
それは運命論です
それはインドの病と見なされる程
実際に彼らは そんな状況の中で
心配しないんです
質問があります このような話―
意識が混乱していること
それを理解し 意識の中身を空にすること―
恐怖… こういった話に―
‐興味はありますか? ‐はい
‐本当に? ‐はい
それなら何を?
ただ耳を傾けます
いえ ここで対話をするのです
深く深く 調べるのです
つまり自由でなければなりません
己の先入観から 己の過去の経験から…
でなければ調べられません
これは探求なのですから
さらに深く踏み込むのです
それをやる意志がありますか?
実際に自我をなくすことが?
だからと言って 妻や子供をおざなりにする―
という意味ではありません
それは非常に愚かなことです 苦行者のように―
山中に入ったり―
修道院に入ったり
それは極端な逃避です
実際にすべきことは
家族と向き合うことです
自我を完全に なくすことは可能でしょうか?
知的に 問題に対処するために