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この動画は聖徳太子について説明 する動画だよ
ゆっくりしていってね さっそくだが説明お願いするぜ
えー絶対むり 説明するのは、まりさだよ
しかたないぜ 本名はうまやどのみこ
名前の由来は馬小屋の前で産まれた からとの伝承もあるが出生地の
うまやどや蘇我氏興隆の地うま やどからきているとする説が有
力 一度に10人の話を聞き各々に的
確な答えを返したことからとよ とみみとも呼ばれた
まりさ金髪なのにくわしいね 歴史上の人物の知識に髪の色は
関係ないぜ それじゃあ聖徳太子の一生について
説明するぜ はーい
太子が生まれた古墳時代末期は 百済を通じて仏教が伝来して
から約40年が経った頃 政局では仏教を崇拝する蘇我馬
子と日本古来の神道を信奉する 物部守屋が激しく対立していた
国際派のうまこはアジア各国が 仏教を信奉しており日本もこれを
採り入れ世界の仲間入りをする べきとし
守屋はそんなことをすれば天照大神など日本の神々
の怒りに触れるという保守勢力 の代表だった
太子のお婆ちゃんは父方が馬子の姉母方がうまこの妹
蘇我氏の血をひく太子もまた少年 期から仏教に傾倒していた
馬子が百済から伝わった弥勒 像を自邸に安置すると10歳の太子
が供養に訪れたという へぇー聖徳太子って仏教好きだ
ったんだね 585年11歳太子の父親第31代用明天皇
が即位したがほどなく父は病に 臥した
父は天皇として初めて公に仏教 に帰依する
587年13歳で父は他界 うまこは先代の第30代びたつ天皇
の妃で太子の父の妹ぬかたべの ひめみこを皇位継承者に推し
一方物部守屋がびだつ天皇の弟 あなほべのみこを推した事でつい
に両者は戦場での直接対決となった この戦乱では太子もうまこ軍として
戦場に出る 当初戦いはもののべしに有利に
進んでいたが 太子が仏像を彫って四天王に勝利
祈願したところうまこ軍の矢が 守屋に命中し形成が逆転ものの
べしは滅亡した 聖徳太子すげー
戦後ぬかたべのひめみこは弟の すしゅん天皇を即位させたが
すしゅん天皇はうまこと仲違い して即位から5年目に暗殺された
うまここわい これを受けてぬかたべのひめみこ
が592年初の女性天皇として即位 し推古天皇となった
翌年すいこ天皇の甥っ子で皇太子 の聖徳太子が19歳で摂政となり
天皇の補佐に当たった 太子は就任直後に四天王へかつ
てのいくさの感謝を込めて日本 最古のかんじ四天王寺を建立する
この593年の摂政就任の4年前に大陸 には約370年ぶりの統一王朝超大国
隋が誕生しており 朝鮮半島では高句麗新羅くだら
が覇権を競っていた 日本は100年以上も中国と公式に
交流を持っておらず大陸の情報 が極端に不足していた
太子は渡来した高僧から隋が高度 な文明社会を築いていることを
聞かされる 隋には法律と官僚制による優れた
行政システムがあり政治に儒教 を導入して役人に道徳を重んじ
させ 首都ちょうあんでは仏教芸術が
花開いていた 当時の日本は大豪族が一族の利益
を求めて互いに争い民衆の暮らし は常に困窮しておりあまりに政治
制度が立ち遅れていた 太子は先進国の隋と国交を結ぶ
ことで最先端の文化技術を採り 入れると共に交流を通して日本の
国際的地位を向上させようと思 った
うまこも太子と同じ考えであり 両者は協力して改革に取り組む
596年22歳まずは国内初の本格的 仏教寺院の法興寺を完成させた
五重塔と伽藍を備えた荘厳な寺院 だ
大和政権はくだらじんを中心として 優れた建築術彫刻技術を持つ者
を大量に受け入れており 渡来人は宮廷人口の3分の1にまで
達した ちょそれおおすぎじゃない
そして出身国の関係なく互いの 心を結ぶ仏教が益々重要になった
そして600年26歳ついに太子は120 年ぶりに使者を大陸に派遣する
つづくぜ えーーここでおわり
うぷ主が作るの疲れたって言ってる ぜ
早くつづきききたい 早くうぷできるようにいっとく
ぜ というわけで
ばいばい