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聖徳太子 偉人に学ぶ
日本は世界の主要文明の一つ、「日本文明」を構成する
ただ一つの国だと言ったのは昨年末に亡くなった
アメリカの政治学者サミゥエル・ハンチントンでした。
ハンチントンは1996年に出した『文明の衝突』とい
本の中で世界の主要文明には西欧文明、ロシア正教会文
明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明、イスラム文明
ヒンズー文明、中国文明に加えて日本文明があると指摘
しました。日本は欧米の文明とも中国の文明とも違う
独自の文明圏を築いており、他の文明にはそれを構成す
る国がいくつかあるが、日本文明を構成するのは日本一
国だと指摘したのです。
日本が欧米と異なる文明圏に属するということは誰にで
も分かることですが、日本が中国と異なる文明圏に属し
していることを自覚している日本人はそう多くはいませ
ん。もともと中国の文字である漢字など日本は古代より
中国からの多くの文化を学んできました。そういうこと
もあって日本を中国文明圏の一部だと思っている人が多
いのですが、ハンチントンは、日本は中国とは違う独自
の文明圏を築いている――と指摘したのです。このこと
は日本の外交姿勢を考える上で重要なことです。
戦後の日本はとかくアジアの中で孤立しないようにと
周辺諸国に過剰な気遣いをしてきました。しかし、ハン
チントンによれば、日本はもともと「孤立」した国です
周辺諸国とは異なる文明圏に属するのに、当の日本がそ
の本来的な孤独さに耐えられず、周辺諸国に謝罪などの
余計な気遣いをしてしまいます。先ごろ出された韓国併
合百年に当たっての首相談話はその典型と言えるでしょ
う。
日本が中国や韓国とは違う独自の文明圏に属していると
いう考えは何もハンチントン独自のものではありません
飛鳥時代の皇族政治家・聖徳太子はまさに日本が中国と
独立した国であることを示したという意味で今日の日本
の基礎を築いた偉大な人物です。もし聖徳太子がいなけ
れば、日本は今も中国文明圏の一部の国であり続けてい
たかも知れません。
聖徳太子が日本の歴史に登場する前までの日本と中国の
関係は「朝貢(朝貢)外交」によるものでした。中国の
歴史書によると五世紀、日本には「讃(さん)・珍(
ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)」と続く
「倭の五王」がおり、中国の王朝に「臣下」として礼を
をとって定期的に「朝貢」を行い、その見返りとして
中国の王朝から官職や称号を得ている状態でした。
例えば、二人目の倭王・珍は「安東将軍倭国王」という
称号を中国の王朝からもらいました。中国から見て東に
位置する野蛮な地を安定させる役割を負った将軍である
倭の国王という意味です。中国の王朝には皇帝が存在し
その皇帝から国王の称号をもらうという完全な上下関係
君臣関係だったのです。
聖徳太子が中国との外交を行なったのは西暦六〇〇年に
なってのことでした。実はこれは日本として「倭の五王
」以来、約一世紀ぶりのことでした。六〇七年、
聖徳太子は中国大陸を統一した隋に二回目の遣隋使とし
て小野妹子を派遣しました。このとき妹子は隋に
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。
恙無(つつがな)きや」という国書を差し出しました。
当時隋の皇帝・煬帝はこれを尊大だあるとし、「悦ばず
」「蛮夷の書、無礼なる者あり、また以て聞するなかれ
」と強い怒りを示したと言われています。こんな無礼な
国の外交文書は二度と自分に取り次ぐなという意味です
煬帝が怒ったのには理由がありました。日本からの国書
の内容は、当時の東アジアの国際秩序の感覚では考えら
れないものだったからです。「天子」とは皇帝の別名で
東の野蛮な国からやってきたのに、自分と同等の「天子
」と名乗っている。「臣下」の分際で皇帝を名乗るのは
いったいどういう了見かということです。周辺諸国では
隋が王朝を樹立した後、日本に先立って朝鮮半島の百済
高句麗、新羅(しらぎ)が朝貢し、それぞれ「王」の称号
を得ていました。それなのに日本だけが、ということです
しかし、煬帝は一度立腹したものの日本に厳しい態度を
取ることはありませんでした。ちょうど隋に対して本気
で臣従していない高句麗への征伐の準備をしている時だ
ったからです。もちろん聖徳太子はそのことを見据えた
上でそのような国書を送ったのです。
煬帝は不愉快に思ったものの、結局、答礼使として
外交官を日本に派遣し、日本との国交回復に応じました
六〇八年、隋からの答礼使が帰国するに当たって、
小野妹子は答礼の大使として再び国書を携えて隋に渡り
ました。今度の国書には
「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」と書かれ、簡単な
挨拶が続いていました。今度は天子と天子、皇帝と皇帝
でぶつからず、中国皇帝の臣下である「王」に逆戻りす
るつもりはありません。そこで使ったのが「天皇」とい
称号でした。言うまでもなく、天皇も皇帝も対等な立場
です。
二度目の国書に煬帝が怒ることはありませんでした。
中国の王朝は事実上、中国皇帝と並ぶもう一人の「天子
」の存在を認めたのです。同時にこのことは日本が中国
皇帝支配下から完全に離れたことを意味しました。
日本は中国から独立した国家であると自覚し、その上で
国家運営を行なって内外に示したのです。
遣隋使の一回目は西暦六〇〇年のことでした。隋が中国
大陸を統一したのが五八九年のことでしたが、日本は
間髪を入れずに外交交渉を始め、隋の二代目皇帝・煬帝
が即位するや対等な外交関係を結ぶべく二度にわたって
国書を提示しました。
二度の国書は日本が独立した王権であることを宣言した
ものでした。周辺諸国が次々に中華文明圏に組み入られ
る中、日本は敢えてそこからの政治的自立を宣言したの
でした。
この中華文明からの「自立」は言葉を変えれば「孤立」
を意味します。日本は聖徳太子の時代に敢えてこの
「孤立」を選んだのです。「孤立」の道を選ぶことによ
って同時に大国・隋と「対等な関係」であるという
「強さ」も獲得したのです。
人と人との関係もそうですが、「孤立」や「孤独」は
精神を不安定にします。その不安定さから逃れるために
友人や仲間を得ようとするものです。しかし、外交関係
で言えば、そのような心理が現在の中国や韓国に対する
日本の「弱さ」を作り出しています。日本はもともと
孤立した国です。容易に理解されない国です。
そのことを自覚する時、日本は逆に
「強さ」を獲得することが出来るのです。聖徳太子の
外交政策はそのことの意味を再認識させるものではない
でしょうか。(高崎経済大学教授)