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ショパンのワルシャワ
フレデリック・ショパンが青春時代を過ごした街 ワルシャワへようこそ。
フレデリック・ショパンは1810年3月1日
ワルシャワから50キロメートルほど離れた
ジェラゾヴァ・ヴォラという村で生まれました。
彼の父、ミコワイは10代の頃に ポーランドに移住したフランス人で
コシュチュシュコ蜂起の時には ポーランド人として戦った人物です。
その後彼は裕福な家庭の子弟たちを 教える家庭教師になりました。
ジェラゾヴァ・ヴォラで クシジャノフスキ家出身のユスティナと出会い
1806年に結婚しました。
フレデリックにはルドヴィカという姉と ふたりの妹 – イザベラとエミリアがいました。
フレデリックが生まれて7ヶ月経った頃、 一家はワルシャワへ引っ越してきました。
フレデリックはこの街で 人生の半分を過ごすことになります。
彼と親しい人たちは彼のことを フリツェックと呼んでいました。
ショパン家のワルシャワでの最初の住居は
今はもう残っていない サスキ宮殿という建物の一角にありました。
その頃サスキ宮殿の一角に ワルシャワ高等学校があり
この学校でミコワイ・ショパンは
フランス語教師として 教鞭をとることになったのです。
サスキ宮殿はその歴史において さまざまな役割を果たしてきました。
20世紀、ここはポーランド軍の総本部でした。
ここにあったポーランド暗号局の 数学者が世界で初めて
ドイツ軍の暗号機エニグマの 暗号の解読に成功しました。
1944年のワルシャワ蜂起のあと この宮殿も他の建物と同じように
ナチス・ドイツ軍の手によって破壊されました。
現在は無名戦士の墓の一部となっている 柱廊部分だけが残っています。
サスキ公園は18世紀末
ワルシャワ初の公立公園として 一般市民に開放されました。
この公園はワルシャワの一般市民に開放される前は
貴族や上流階級の人々だけが 入ることを許されていた場所でした
フレデリックがまだ小さな子供だった頃、
家族と共にしばしば この公園を訪れていたそうです。
ショパン一家のワルシャワでの2番目の住居は カジミエシュ宮殿です。
1816年ここにワルシャワ大学が創立されました。
1年後、この場所へワルシャワ高等学校と そこで働く教員たちの住居が移転されました。
ショパン一家がここに引っ越してきた時、 フレデリックは7歳でした。
ショパン家には、地方の裕福な領主を両親に持つ ワルシャワ高等学校の生徒たちが
下宿していました。
フリツェックはすぐに彼らと仲良くなりました。
フリツェックは病弱な体質でしたが 人に会うことがとても好きだったので
生徒たちはこの少年をとても好きになりました。
フリツェックはピアノを弾くほかに、
カリカチュアを描くのが得意で、 演技もとても上手でした。
学校長の真似をして 皆を笑わせたこともあるそうです。
高等学校でフレデリックは ふたりの親友に出会います。
ティトゥス・ヴォイチェホフスキと ヤン・ビアウォブウォツキです。
ヤンは若くして結核で亡くなり、
ティトゥスはフレデリックが祖国を離れた後は 二度と会うことはありませんでした。
ショパン一家はみな音楽的で 父親はフルートとバイオリンを
母親は歌を、 そして姉ルドヴィカはピアノを弾いていました。
まだ幼い弟が持っていた音楽の才能を見抜いたのは この姉、ルドヴィカでした。
彼女は両親に、6歳のフリツェックのために ピアノ教師を探すよう頼みました。
チェコ出身のヴォイチェフ・ジヴヌィが フリツェックの最初のピアノ教師です。
ジヴヌィはエキセントリックな風貌の持ち主でした。
流行遅れの服に18世紀風のかつらをかぶって、 その上ネクタイはいつも曲がっているような。
そして嗅ぎ煙草が大好きで
しょっちゅう嗅いでは 大きなくしゃみをしていました。
フレデリックの友人の親たちは、 日ごろ自分の息子たちの世話をしてくれる
ショパン一家へのお礼の気持ちをこめて
フリツェックの健康状態が 少しでも良くなるよう
彼を夏休みに自分たちの 田舎の領地へ招待しました。
この田舎への旅が フレデリックに大きな影響を与えます。
若いショパンはポーランドの民族音楽を 飽きることなく聴き続け
この時に得たインスピレーションから マズルカという作品が生まれました。
ジヴヌィのもとで学びながら ショパンは最初の作品である
ポロネーズ、行進曲、 変奏曲などを作曲しました。
残念ながらその多くは失われ、 現在は残っていません。
12歳になったフレデリックは ワルシャワ音楽学校の学長である
ユゼフ・エルスネル教授のもとで 作曲法のプライベートレッスンを始めました。
エルスネル教授は作曲家であり、 また指揮者としても有名な人物でした。
ポーランドで最も権威のある音楽学校は
ワルシャワにある フレデリック・ショパン音楽大学です。
ショパン一家の最後の住居は クラシンスキ宮殿とも呼ばれている
チャプスキ宮殿の一角です。
ワルシャワ大学正門前の クラコフスキェ・プシェドミエシチェ通り5番地に
今でも残るこの宮殿は
現在は美術アカデミーになっています。
ショパン一家が住んでいたのは この宮殿の南側の別館の3階です。
この部屋で彼は作曲をしたり 街を眺めながら空想にふけったりしました。
ホ短調とヘ短調の2つのピアノ協奏曲など 初期の傑作はこの部屋で生まれました。
この部屋は友人たちと一緒に 音楽を楽しむ場所でもあり
フレデリックは自分の新しい作品を 友人たちに披露したりしました。
しかしこの引越しはショパン一家にとって
悲しみと隣り合わせになったものでした。
結核のため亡くなった
ショパンの妹エミリアの死が 影を落としていたからです。
フレデリックはエミリアをとても愛していました。
自分たちの文学クラブを作ったり お芝居を演じたりして
一緒にたくさんの時間を過ごしました。
ふたりとも体がとても弱かったのです。
ヴィジテック教会では毎週日曜日に
ワルシャワ高等学校の生徒のための ミサが行われていました。
フレデリックはこのミサで オルガンを弾く役目を与えられます。
彼はこれを大変誇りに思い 大喜びで引き受けました。
このオルガンのパイプのうち数本は
ショパンが演奏した当時から 残っているものだと言われています。
このワルシャワで数少ない 第2次世界大戦で破壊を免れた教会は
今でもフレデリックの演奏を その記憶に留めているでしょう。
ある時フレデリックはミサの最中
ミサそっちのけで 自分の即興演奏に熱中してしまい
神父様はミサを続けるため、人に頼んで
フレデリックの暴走を 止めなければなりませんでした。
1815年、ウィーン会議での決定により
ワルシャワ公国は ポーランド立憲王国となります。
これは事実上のロシア支配で
ロシア皇帝がポーランド立憲王国の 王を兼ねることになりました。
ロシア皇帝がワルシャワに 定住することはなかったので
皇帝は自分の代理人たちをワルシャワに送り
ラジヴィウ宮殿に住まわせました。
この宮殿は現在 ポーランド大統領官邸となっています。
この宮殿で当時8歳だったフレデリックの 初めての公式の演奏会が行われました。
これはワルシャワ慈善教会が主催したものです。
音楽評論家たちはこの演奏会に 何も期待していなかったようです。
小さい子供の退屈な演奏に 付き合わされるだけだと思っていたのでした。
しかし演奏会の後、ミコワイ・ショパンは
ワルシャワの著名な文化人たちから 多くの賞賛を浴びることになります
小さなフリツェックはワルシャワ社交界に センセーションを巻き起こしました
演奏会後、家に帰ったフリツェックは
病気のため家に残っていた母親に 演奏会のことを聞かれたとき
母親を喜ばせようと思い
みんながいちばん気に入ったのは 僕のイギリス風の襟だよ、と語ったそうです。
その襟は、彼の母親がこの演奏会のために 特別に縫ってくれたものでした。
19世紀当時、人通りの多い王宮広場のすぐ近くに マリエンシュタットと呼ばれた通りがあり
そのすぐそばに ベルナール派の修道院が建っていました。
残念ながら現在は残っていません。
1819年から1831年まで
この場所には音楽学校がありました。
高等学校時代のフレデリックは まったく勉強熱心ではありませんでしたが
この、ワルシャワ大学と共同で運営されていた 音楽学校に入学した彼は
勉強に対する姿勢をがらりと変えます
音楽学校長、ユゼフ・エルスネルは 学生の個性を尊重する人物でした
彼は最初の頃、フレデリックの才能を 距離をおいて見ていました。
作曲家の才能が一番発揮されるのはオペラ作曲において と考えていたエルスネルは
何度もフレデリックに オペラを作曲するよう説得しましたが
フレデリックは学校長の言葉に 耳を貸しませんでした。
結局エルスネルは折れ、ショパンに 彼の愛するピアノ曲を作曲することを許します。
その3年後エルスネルは フレデリックの才能をこう評価しました。
フレデリック・ショパン 類まれなる才能、音楽の天才
しかしフレデリックは音楽学校時代、 勉強だけに専念していたわけではありません。
この学校で声楽を勉強していた少女、 コンスタンツィア・グワトコフスカと出会います。
長い間フレデリックは 彼女に気持ちを伝えることが出来ませんでしたが
友人たちへ宛てた手紙のなかで しばしば彼女のことを書いています
コンスタンツィアへの想いは ピアノ協奏曲へ短調につながりました。
彼はこの曲の第2楽章を コンスタンツィアに献呈しています。
ふたりが最後に会ったのは サスキ公園だと言われています。
コンスタンツィアとフレデリックは指輪を交換し、 生涯親交を持ち続けることを誓い合いました。
しかし、若いふたりの恋は 距離に耐えることができずに終わりを迎えました。
1年3ヶ月後、コンスタンツィアは 裕福な領主と結婚しますが
その後も長い間フレデリックからの手紙と 彼の肖像画を大事に持っていました。
死の直前、彼女はそれらを焼き捨てました。
ショパンの時代、ミオドヴァ通りは ワルシャワ社交界の中心地でした。
その頃の政治的状況の影響で
どのカフェでも活発に 意見が交わされていました。
カフェにはロシアのスパイが居ることもあり、 ここで聞いたことや見たことを
ロシア皇帝の代理人である コンスタンティ大公に報告していました。
フレデリックもこれらのカフェに よく出入りしていました。
そのうちのひとつ、 “ホノラトカ”というカフェは
現在もミオドヴァ通りにあり 昔の面影を伝えています。
これらのカフェに入り浸っていた その頃10代のフレデリックは
数年後にワルシャワで11月蜂起が起こるなどとは 思ってもみませんでした。
彼はシュトゥットガルトで 11月蜂起が失敗に終わったことを知りました。
怒りと悲しみにくれた彼は
なぜポーランド人が こんな目にあわなければならないのか
と、日記に神への怒りの言葉を書きなぐっています。
この時の感情が彼に “革命のエチュード”を作曲させました。
ショパンは20世紀においてのワルシャワの運命も 予想することはなかったでしょう。
第2次世界大戦中、 ワルシャワのほぼ全土が焼け野原となりました。
現在は生命力あふれる、ヨーロッパの大都市です。
ショパンの時代、 現在ワルシャワ蜂起記念碑のあるクラシンスキ広場には
ショパンがワルシャワでの 3回の最後の演奏会をした場所である
国立劇場が建っていました。
彼はここで、自身が作曲した 2つのピアノ協奏曲を演奏しました。
ホ短調の協奏曲の第2楽章について 彼は友人に宛ててこう書いています。
記憶のなかにあるたくさんの 素敵な瞬間を思いおこさせる、
聴いている人たちが そんな印象を持つようにしたいんだ
落ち着いて。大丈夫、絶対うまくいくよ。
フレデリックはその生涯において たった30回しか演奏会に出演しませんでした。
自分は演奏会には向いていない と思っていたようです。
数ヵ月後、20歳の“音楽の天才”は ポーランドをあとにします。
それは11月蜂起が始まる たった4週間前のことでした。
彼の家族や友人たちは フレデリックの送別会を開きましたが
それは喜びと、別れの悲しみが 入り混じったものでした。
クラコフスキェ・プシェドミエシチェ通りと コジャ通りの角にある
ヴェッセル宮殿の中にはその当時、郵便局がありました。
この場所からショパンは旅立ちました。
1830年11月2日の夜明け頃
ショパンはここで郵便馬車に乗り込み ワルシャワを永遠に去りました。
その時の彼は、
自分がもう二度と祖国に戻ることがないとは 思ってもいませんでした。
ポーランドの土を入れたカップのほかにも フレデリックはもうひとつ
大事な思い出の品を持っていきました。
それは友人たちが別れの言葉を 書き寄せてくれたアルバムで
最初のページに水彩画で ジグムント3世像が描いてあるものでした。
1831年の秋、フレデリックは その頃の文化の中心地であった
パリにたどり着きました。
その半年後、プレイエルホールにおいて パリの文化人たちの前で演奏会を行いました。
演奏会は大成功に終わり、 フレデリックは音楽界での地位を確固たるものにします。
彼の作品の中でも傑出しているものは パリで作曲されています。
フレデリック・ショパンは1849年10月17日
結核により39歳の若さでこの世を去りました。
彼の亡骸はパリの ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。
フレデリックの死の直前に 彼を訪ねたポーランドの詩人、
ツィプリアン・カミル・ノルヴィドは ポーランドへ向けてこのように書きました。
生まれはワルシャワ、心は生粋のポーランド人、
その才能は国境を越えた
フレデリック・ショパンがこの世を去った
フレデリックは二度と 祖国の地を踏むことがありませんでした。
しかしフレデリックの死後、姉・ルドヴィカは 弟の最後の望みを聞き入れ
彼の心臓をワルシャワに持ち帰りました。
それはとても困難であり、 また危険なことでした。
ショパンの心臓は木製の小さな箱に入れられ、
ルドヴィカはそれを 自分のスカートのなかに隠して国境を越えました。
彼女はこのポーランドが生んだ 偉大な作曲家の心臓を
ショパン一家が通っていた教会に 安置したいと望みました。
フレデリック・ショパンの心臓は
ワルシャワの聖十字架教会の一角に 安置されています。
ショパンの心臓の位置を示すプレートには 聖マタイ福音書の言葉が記されています。
あなたが愛するもののもとに あなたの心もある
第2次世界大戦中、 ポーランドでショパンの作品は禁止されていました。
ナチス・ドイツ軍はワルシャワを占領した後
ワジェンキ公園にあったショパン像を 粉々に破壊しました。
戦後このショパン像は復元され
現在はショパンを愛する人々が 世界中からあつまる場所となっています。
フレデリック・ショパンは 今もワルシャワと共に生きています。
日本語訳:舘ザレフスカ愛子�