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三人は又トロッコへ乗った。
車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。
しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。
「もう帰ってくれれば好い」――彼はそうも念じて見た。
が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、
勿論彼にもわかり切っていた。
その次に車の止まったのは、切崩した山を背負っている、
藁屋根の茶店の前だった。
二人の土工はその店へはいると、乳呑児をおぶった上(かみ)さんを相手に、
悠悠と茶などを飲み始めた。
良平は独りいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。
トロッコには頑丈な車台の板に、
跳ねかえった泥が乾いていた。
少時(しばらく)の後(のち)茶店を出て来しなに、
巻煙草を耳に挟んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)
トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。
良平は冷淡に「難有(ありがと)う」と云った。
が、直(すぐ)に冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。
彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。
菓子には新聞紙にあったらしい、石油の匂がしみついていた。
三人はトロッコを押しながら緩い傾斜を登って行った。
良平は車に手をかけていても、心は外の事を考えていた。
その坂を向うへ下り切ると、又同じような茶店があった。
土工たちがその中へはいった後(あと)、
良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。
茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。
「もう日が暮れる」――
彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。
トロッコの車輪を蹴って見たり、
一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、
――そんな事に気もちを紛らせていた。
ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木に手をかけながら、
無造作に彼にこう云った。
「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれの家(うち)でも心配するずら」
良平は一瞬間呆気(あっけ)にとられた。
もうかれこれ暗くなる事、
去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途(みち)はその三四倍ある事、
それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、
――そう云う事が一時にわかったのである。
良平は殆ど泣きそうになった。
が、泣いても仕方がないと思った。
泣いている場合ではないとも思った。
彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜(おじぎ)をすると、
どんどん線路伝いに走り出した。
良平は少時(しばらく)無我夢中に線路の側を走り続けた。
その内に懐(ふところ)の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、
それを路側(みちばた)へ抛(ほ)り出す次手(ついで)に、
板草履も其処へ脱ぎ捨ててしまった。
すると薄い足袋の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙かに軽くなった。
彼は左に海を感じながら、急な坂路を駈け登った。
時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪んで来る。
――それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。
竹藪の側を駈け抜けると、
夕焼けのした日金山の空も、もう火照りが消えかかっていた。
良平は、愈(いよいよ)気が気でなかった。
往きと返りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。
すると今度は着物までも、汗の濡れ通ったのが気になったから、
やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側(みちばた)へ脱いで捨てた。
蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。
「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、
すべってもつまずいても走って行った。
やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、
良平は一思いに泣きたくなった。
しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。
彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。
良平はその電燈の光に、
頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。
井戸端に水を汲んでいる女衆や、畑から帰って来る男衆は、
良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。
が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。
彼の家の門口へ駈けこんだ時、
良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。
その泣き声は彼の周囲へ、一時に父や母を集まらせた。
殊に母は何とか云いながら、良平の体を抱えるようにした。
が、良平は手足をもがきながら、啜(すす)り上げ啜り上げ泣き続けた。
その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。
父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣(わけ)を尋ねた。
しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。
あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、
いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、…………
良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。
今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。
が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。
全然何の理由もないのに?
――塵労(じんろう)に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、
薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………