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造物主はわが祖先を
大姆姆山の麓のあの地で創造し
そこから繁衍させた
それは造物主がわが祖先たちに
この斜面の地で
この土地 この河川
この山林を
共同で管理するよう切望したからに他ならない
累代にわたって
この土地の上に
根を下ろすべきだ
我々の文化芸術に
我々の言葉に
我々の物語の中に
根を下ろすべきだ
──台湾原住民詩人 伊誕. 巴瓦瓦隆
よい国家よい人民
私は江蘇省の揚州人です
私と江沢民は同郷です
しかし私はその故郷へ行った事はなく
彼がどんな人かまったく知りません
戸籍とはどこへ行っても 生れつきの郷愁を持たせる
彼は母斑のようなものだと言った
-台湾詩人 楊牧
我が家の客間に父親の写真があります
彼が慈湖の入り口で撮った写真です
いまでもずっと飾っています
我が家の飾り棚の真中に
私が家に帰ってこの写真を見たとき
私は父の国家への思いを理解できます
なぜなら彼は軍隊に付き従って来たからです
私の父が来たのは確か19歳の時です
彼のつき従う領袖とともに
そして部隊とともに
一個人がまったく知らない
見なれない地方に来て
彼の心のなかでは
国家を頼りにする気持ちは
とても強いものだったろう
私は彼もまたいつの日か中華民国が
三民主義で中国を統一できることを
強く望んでいたと信じています
彼にとってそれは恐らく一生の
我々二人の息子の成長を見る事を除いて
最大の終生の夢でした
彼は時々
海岸に立って遠望する波の果てるところには
もっと長い海岸、高山、森林、大河があるそうだ
お母様が見たことがない所こそ 我々の故郷だ
──楊牧
楊牧先生のこの詩の中に
一人の法学部卒業の青年が楊牧先生に手紙を出して
公理と正義とは何かと
問いかけることが描写されています
そのとき私は一瞬 詩の中の法学部の青年は
私ではないかと錯覚を覚えました
しかし次の詩の一行を読んだとき
母親が見たことがない土地を故郷と呼ぶ
この一行を見て 突然大きな震えを感じた
私の解釈では 母親とは我々の帰属の象徴で
我々が成長するこの土地の化身です
では母親が見た事がないの意味するのは
非現実的な強制されたアイデンティティでしょう
私と詩の中の主人公との経歴は違いますが
皮肉なのは、私と我が父母は
皆が見て聞き触れる事のできるこの土地で
生まれ育ったにも拘わらず
我々も同様に故郷とはどのようなものか
永遠にはっきりとは見えないのです
「私は誰?」この簡単な質問に
台湾人は一向に
簡単な答えができません
1945年ボルネオ戦場の一群の台湾籍日本兵は
オーストラリア捕虜虐待の罪で
戦後重罪に処せられました
日本での服役中も
台湾人であることにより
日本軍人と同等の待遇を得られず
服役終了後
台湾への帰国を選択した人は
かつて日本兵であったことを理由に
皇民化思想の信奉者と看做され
国民政府の長期監視の下に置かれました
1946年、大戦が終結し
台湾人女医である蔡阿信は
カナダより台湾へ帰国しようとして
中国大使館でパスポートの申請をした時
彼女の出生地が台湾であることにより
日本人と看做され 申請を拒絶されました
特殊な歴史の境遇により
一つの世紀を跨って
台湾人民は台湾人、日本人、中国人という
三種の身分の下で翻弄され続けている
私の曽祖父は中国の湖南人です
私の曽祖母は台湾のベナン族の出身です
そして私の祖父は台東に生まれました
だから私の祖父には
アイデンティティ問題がありません
私の父親は日本の教育を受けました
高等学校を出て日本の警察に勤めました
かなり正直な人です
だから彼は国民党が来て以後
あの二二八虐殺事件に遭遇しました
彼らの年輩の人達はすべて知っています
だから彼は常々国民党を批判します
彼ら友達が何人か集まってお酒を飲み歓談すると
必ず国民党を批判します
命かけても 守りたい
おまえは俺の おまえは俺の
俺の宝もの
私はそれを聞くと腹立たしくなります
だから私と父親とはとても疎遠です
父親と私は同国人ではないと思います
私は彼は国を愛さない人だと思います
年齢的に言えば
アイデンティティが比較的曖昧なのは
35歳から55歳辺りの年齢層だと思う
強烈な国民党教育を受け
党が国家を指導する教育に洗脳されたのが
この世代です
遥かな遠い東方に一条の江がある
その名前は長江という
遥かな遠い東方に一条の河がある
その名前は黄河という
我々の教育の最大の歪みは
我々の子供たちに我々の土地をよく認識
理解させるよう導かなかったことです
それは我々人民が成長した後
大きな苦痛、混乱を醸成しました
すなわち私は誰?
私は十八歳までは中国人でした
国立葬儀場の教科書を学んで成長した
忠党愛国の思想に満たされて
万里の長城 万里に長く
長城の外は故郷だ
高粱が稔り 大豆は香る
いたる所が黄金で災難少なし
私の小学一年の先生は言いました
貴方たちはしっかりとよく勉強しなさい
将来我々が解放した後
あのときは解放とは言わなかったが
我々が大陸に反攻した後
あなた達はみんな知事になります
ご覧なさい大陸はこんなに大きい
こんなに多くの省こんなに多くの県
彼らはなにも学んでいません
とにかく彼らは最悪です
彼らは知識水準が低く 勉強していません
誰を頼りますか? 我々が頼りです!
だからよく勉強しなさいと言うのです
それは私が小学一年の出来事ですから
強く印象に残りました
あのとき私は
将来知事になろうと思ったのです
私は帰宅して
わざわざ母親に将来知事になると言いました
我々の世代では小さい頃
例外なくあの過程を経験している
即ち先生がいつもあなたに言う
みんな黄帝の子孫です
我々は中華民族です 龍の伝承人
そう 我々が小さな頃
先生からこんな影響を受けて
私は中国人だ 正々堂々の中国人になるんだと
いつも言っていましたね
そう それが我々が小さい頃から受けた教育です
彼がいま言ったように
我々は小さい頃から教科書で導かれた
我々は中国人だとかなんとか
そして我々は多くの本を暗記しました
我々は中国の歴史をたくさん学びました
中国とか夏商周とか
五代十国とか そのまま丸暗記していました
でも台湾の歴史はとても少なかった
音楽、文化、芸術面に於いても同じです
台湾にはどんな有名な画家や芸術家がいるのか
貴方が知っているのは恐らく林懐民だけ
貴方が知っているのは恐らく張大千だけ
貴方が知っているのはこれらの人達だけ
そう そして蒋介石は偉大だと思い込む
帰宅して父親に蒋公は偉大だと言った
そうしたら父親に怒られた
何故なら私の父親は若い頃
非国民党系の運動に参加していたから
彼はお前たちの教師は
出鱈目なことを教えていると言った
そして教科書も出鱈目だと言った
最近になってもまだこんなケースがある
即ち我々が国土と言ったとき
国土はどこから始るのか、そうでしょ?
南は南沙諸島から 西はヒマラヤ山まで
私の人生でいつ南沙諸島に行くことがあるのだろう?
高校の試験では我が国土は南は南沙諸島からでした
子供は突然先生に質問しました
南沙諸島はどこにあるんですか?
中華民国 中華民国
試練に耐えて
長江や黄河の水さえ流れ続ければ
中華民国 中華民国
千秋万世まで永遠に不滅だ
私が住んでいる辺りにタワランという河がある
私の部落は先祖代々からの部落です
このタワラン河を母乳として育まれ
発展し現在に至っています
全体として原住民族の思惟は簡単です
彼が生まれ育ったこの土地で成長する事
アイデンティティはこれだけです
こんなに簡単です
僕の祖父は幼い頃からここに住んでいる
彼は昔の麺茶屋台を一番懐かしんでいる
龍山寺の線香は赤く焼けている
関羽さまの顔が赤くなっている
これは祖父、祖母へ書いて送る歌です
私は幼少より艋舺に生まれ 艋舺で育ちました
現在までずっと艋舺で暮している
もし出来ることなら 私は一生ここを離れたくない
薬草屋の巷間までぶらぶら歩いてきた
日本時代の繁華の匂いを嗅いでいる
僕と繋いだ祖父のあの手は粗い夢のよう
一生を磨り抜いた 土地を磨り抜いた
蕃薯街には彼と祖母がいた
私が大学一年の時 悲情城市が上映された
現在皆この悲情城市を評価していることと思いますが
悲情城市を見て 私は強烈な衝撃を受けました
なぜならそれは二二八事件を語っていたからです
しかし私の記憶の中では
二二八事件という出来事は存在しないものでした
あの映画では あんなに激しい場面があって
あんなに多くの人が逃亡し
そしてあんなに多くの成り行きがあった
突然こんな奇怪な出来事は
どこで起きたのかと思いました
ほんとに疑いました
そしてやっと
二二八事件という出来事を発見したのです
私はこの歴史は一体なんだったのかと
振り返りはじめたところです
それは私にとって驚き余ることでした
そして一体誰が我々を騙していたのか
なぜこんなことになったのか? 私は騙されたのか?
私はあの時から
我が国家の内実はどのようなものなのか
改めて強く考え直すようになりました
中学の時決まって本籍調査がありました
学級委員が教壇から問い掛けます
閩南人は手を挙げて
外省人は手を挙げて こんな風に
しかし私は鮮明に記憶しています
毎回学級委員がこの調査をする時
外省人の番になると
私は心の底から手を挙げたくなかった
なぜ手を挙げたくなかったかって?
これは長い年月をかけて
私が台湾の歴史を学んだ後
やっとあの時
なぜ手を挙げたくなかったかが理解できたのです
なぜなら私が代表するグループは
かつてはこの土地への加害者だったから
そしてこの土地で権勢を誇っていたから
しかしこのアイデンティティは私の中で
何年もの間紆余曲折を繰り返しました
ある日私は陳明章の歌を聴いて
涙を流しました
あのとき私は理解しました
私のアイデンティティ問題はやっと解決しました
私は台湾人になったのです
私は延平中學で学んでいました
延平中學は国民党テロの際
一時国民党に閉鎖されました
一部の教師たちは授業中
これらの教材は試験のためのものだ
君達は是非を判断する能力を
自分で身につけるべきだと言いました
私は多くの本を読み始めました
学校の教材は問題が多い事を発見した
国際的学者の見解とは違っていて
この土地の歴史とも違っていました
私はその実必死にもがいていました
これらは私が何年もかけて学んだ本
長い時間をかけて学び
考えたアイデンティティを否定し
私にとっては人生を否定するものだったからです
私にとって最大の転換点は
王育德の自伝を読んだことにあるかもしれません
自伝の中で彼が高校で教師をしていたときに
自分が編んだ一編の舞台劇に言及していたのです
その舞台劇の内容は
ひとつの島に一群の人々が住んでいて
彼らは元は甲国から来た人々に管理され
その後甲国人は乙国の人々に追い出され
乙国人はまたこの島の居民を管理した
しかしこの島の居民たちは乙国人に管理された後
彼らは甲国人のことを懐かしがり始めた
彼らの以前の管理は比較的良かったと
しかしある人はまたこうも言います
甲国でも乙国でも構わないが
我々は管理されるべきではない
我々は我々自身の主人になるべきだと
私は王育德の自伝の中の
彼が編んだこの故事を読んだ後
私は思いました これはひとつの
台湾アイデンティティの過程の縮図だと
台湾はかつて過去に殖民されました
しかしどこの国家の人間が
台湾に来て殖民統治しようとも
我々自身が我々の主人になることに
勝るものはないと思います
私は歴史の故事を読むのが好きです
小さい頃先生が中国歴史故事を話すと
私も面白いと思いました
でも私は台湾の歴史には無知でした
その後李筱峰先生のあの本を読み 思いました
え どうして先生の言ったことと違うの
あの時から 私はこう思うようになった
我々の以前の歴史教科書は病んでいたと
なぜなら以前の歴史教科書には必ず一章
我々はどうやって他民族を漢化するか
ということが述べられていたからです
彼らの文化を消滅させること
それは偉大なことだと
彼らに強制して 彼ら北方民族の言葉を放棄して
漢語を話すように迫り
彼らを圧迫して 彼ら独自の衣服をやめて
漢民族の衣服を着るようにさせ
それらは励まして
やらせる価値のあることだと納得する
しかしいま見ると
これらの事はかなり病的な事柄と考えざるを得ない
多くの本を読むようになり
そして非合法の放送を聴き
或いは多くの事を知り
政治的迫害を受けた人に会った後
私はやっと過去に私が受けたあの教育は
虚偽に満ちたものだということを知った
そしてこの虚偽の教材を編む政党は
その実とても不正義で虚言に満ちていた
私はこの政権が
これら故事を編む背後の企てを見い出したからこそ
この政権が台湾アイデンティティを
抑圧していることを知る事ができました
実はこの抑圧があるからこそ
台湾アイデンティティは更に勢いを得る事ができます
欣嘩は陳文成事件を主題とした
一首の詩を書いた
「ある人が公理と正義とはなにかを教えてくれた」
楊牧に呼応して
ある人が公理と正義とはなにかを教えてくれた
二十年前の出来事を偲んで 階段を上ってきた
殺害現場の隣の図書館の中に
整然と配列された黄ばんだ書物は
窓外の人の形のようだ
私は彼の依然高揚した目線に添って
本を読み識別する
壁の隅に二十年前の地図が一枚あった
ディジタルの流れに取り残された
長安と太陽はどっちが遠いの?
彼らは皆海が一番遠いと言った
その海でさえある人には
一生涯をかけても辿り着けない
海洋に見つめられているあの自分
一世紀に渡って台湾人は
異民族の統治に反抗し
民主自由を勝ち取ってきた
公理と正義を追求する過程において
自己の国家アイデンティティを次第に形作ってきた
人民全勝 人民全勝
人民全勝 全勝
人民全勝 人民全勝
人民全勝 全勝
台湾人民は団結せよ
私は1988年高校在学で
あの頃高校で就学するとは
学校で皆が何を勉強しようと
我々はなにも勉強しないということを意味していた
だから自分で探した本を読み
皆で一緒に台湾とはなにかを問い
また世界とはなにかを
そしてどんな人になりたいのかを
あの頃は国家アイデンティティには未だ達していず
我々はどんな社会を
求めるべきなのかを考えていました
我々はどんな社会を望むのか
この過程の中で私は選択しました
台湾が一つの独立した国家であることを
人民全勝 全勝
台湾人民は団結せよ
人民全勝
私は社会運動に接触し始めるようになって
やっと台湾というこの土地を
理解するようになりました
この土地で省みる事で自分は
台湾の土に生きる人間だとわかりました
そして私は台湾人です
結論はとても簡単なことです
あなたはここにいて台湾に住んでいるということです
台湾を中心とするこの幾百年
或いは原住民幾千年の歴史を含めて
それは単純で正常な一筋の路です
長い時間をかけて考究を重ねた後
貴方は最も純朴な事柄に立ち返る
貴方がもし国民党の支配を受けず
あらゆる種類の出鱈目がなく
政治的企みの影響を受けなければ
あなたは最も簡単な
この地のアイデンティティに復帰するだろう
台湾 台湾 台湾 台湾
手を上げて 手を上げて
手を上げていいですか? はい
手を上げて
我々は当時楽団を組みました
名声やお金儲けのためではなく
理念のためでした
我々はただ音楽を我々の抗争の為の手段としました
或いは理念を広める為の手段と
東京から台北を経て ニューヨークに来た
我々の歩みはまったく止まらない
ツアーの武器は音楽だ
Made in Taiwanの純粋の味だ
我々は皆に少しでも多く理解してもらいたい
これが台湾の音楽です これが台湾の生命力です
これが台湾の創作です
僕はあなたが聴いて分かってほしい
台湾の栄耀はちょうど今だ
我々は自己の母国語で創作して
皆さんによい音楽だと思ってもらいたい
翻って外国人に
台湾語を客家語を学んでもらうのもよい
彼らに美しい言語だと思ってもらえるだろう
我々は日本や韓国のものを追求するのもよいが
我々も外国人がそして なにより我々の子供たちが
もっと台湾を好きになるようにすべきです
僕達は台湾という国にいる
母語で創作されたものはさっぱり聞き取れないのに
中国や日本や韓国のものなら ぺらぺら
終日韓国や日本のものだけに夢中なら
祖先は憾み嘆くだろう
手を組んで頑張って 外国人を台湾ファンにしよう
我々の歌により多くの子供たちに
台湾の伝統音楽は
こんなに面白いものだと感じてもらいたい
それは時流の音楽にも成り得るものです
本来台湾の伝統音楽はすごい力を備えています
そう それは素晴らしいことです
ピザが五つに分かれたように
我々は全世界を歩き抜いた
我々がどこから来たか分からなければ
台湾からだ 今よく聞きたまえ
去年我々がトロントで公演したとき
その場所は
多くの観光客が行き来する所で
聴衆には通行する観光客もかなり混じっていました
我々がある一曲
『あなたの名前は台湾人』を歌い終わったとき
我々は台湾は一つの国家だと言いました
それは麗しい独立した国家です
我々が言い終わった後
多数の台湾留学生はとても嬉しそうでした
お前は何人?
僕は台湾人だ
僕は生粋の台湾客家人だ
台湾の米を食べている事を忘れて
日本や韓国のファンなんかになるのはやめてくれ
外国人じゃあるまいし
滅茶苦茶なABCDEはやめてくれ
神祖の位牌に福建の長泰から来たと書いてあるが
僕の故郷台南はむかし番社だったそうだ
僕は河洛人かシラヤ人か判らなくて困っているが
はっきり言えるのは僕の名前は台湾人だ
だから私は言いたい
その後このアイデンティティは
私にとって とても大切なものになりました
学術研究、博士論文、創作
すべてにこの重要な中心理念が生きています
私はこれは個人の問題ではないことを発見しました
私は学術研究上の最良の作品も
我々の文学や人文研究のなかの
最良の研究も最良の学者たちも
彼らは一貫して
政治を離れていないことを発見しました
アイデンティティを離れない 観念形態を離れない
これらのものは最も中心となる議題です
あなたが深く研究して
あなたがこれらに触れて
なおかつあなたが堅実であれば
あなたの学術に広がりと深さをもたらすでしょう
そうでなければあなたはただ
うわ辺の浅薄な皮相に漂うだけです
だからアイデンティティ
そして私がいま述べた観念形態または政治的なものは
私が毎日向き合うものとなりました
研究の上においても 創作の上においても
私は何度か面白い経験をしたことを憶えています
私がなにげなくMainland Chinaを書き出した時
すると先生はMainlandを消してしまった
彼がそれを消したことから あなたも彼の気持ちを
はっきりと感じ取ることができるでしょう
なぜこれを書いたの
私は彼が二つ目のそれを消すのを見て
彼は何も言わず消したが
ChinaはChina なにがMainland China
彼のそういう声が聞こえたように感じた
でも私が戻って 線で消された字を見た時
あの一筆は私に大きな反応をもたらした
それは鞭で打たれたような感覚でした
私はなぜまたなんの意識もなく
再び機械的に同じ事をしてしまったのか
彼の一連の行為は
その実私に多くの機会を与えてくれて
私は誰か?私はどこから来たのか?を
考えさせられるようになりました
私はなぜMainland Chinaを用いるのか?
これはどんな意味を表しているのか?
私がMainland Chinaと言うとき
私は台湾をどのような位置に置き
自分自身どのような立場に立つのかが問われる
私はもう三十歳を過ぎました
しかし私はいまでも
これらの言葉が孕む問題について
他人から注意される必要があります
僕たちは仕事を探してやり続ける
さもなければ 頼りを失って生きていられない
医者だったある獄囚は
大変詳しい星座図を描いていた
彼は消灯の後よく皆に星座を教えた
彼は言った 星座が分かれば
いつか緑島を離れる時
たとえ泳いでいようと星座を頼って
台湾へ帰る方向を見つけられる
鴎が高く遠くへ羽ばたいていく
遠洋までついて来いと絶えず呼ぶ
赫々とした赤い太陽の光は
男児の志気万丈を放っている
高校の時私はバンドを組み
音楽をやっていました
なにを書いても感動を覚えず
わたしの創作を後押ししてくれる
真実の力強い核心を見つけられずにいました
しかし台湾に対するアイデンティティを持ち始めた後
私は原住民の神話を読んだり
この土地に発生した
あらゆる出来事について学んだりして
とても感動しました
途中には自己を否定する過程があり
乗り越えなければなりませんでしたが
私は価値のあることだったと思います
祖先の霊は縛られている
刺青の顔の栄光は去った
私がこのアイデンティティを見つけたことには
大きな価値がありました
私はとても幸運だったと思います
私は台湾にいたからこそ
この地のものは
こんなにも重要なのだと発見することができました
私はこの時やっと感動を覚えました
必死にあがいて
自己との抗争を経て
精神の苦闘を乗り越えて
やっと真実のものを掘り当てました
それらを披瀝した後
欧米人たちもそれがとても重要だと思い
なぜなら彼らにとっては
彼らも自己のものを書いてはいるが
アジア人が自己のものを書き始めたのを見て
彼らは敬服し そして学ぼうとしました
大港に荒い風が吹き上がっている
堂々たる男児は出征するところだ
その意気は高雄を鳴動させるほどだ
一斉に我々の前途へ向かって進もう
大港に荒い風が吹き上がっている
堂々たる男児は出征するところだ
その意気は高雄を鳴動させるほどだ
一斉に我々の前途へ向かって進もう
台湾の民主化の過程は
台湾主体意識の成長と
台湾アイデンティティの成長と
台湾人意識の成長とともにあります
とりわけこの三年来
国民党の執政復帰の情況の下で
我々はこの趨勢の下でも
それらの成長には衰えが見られないのを知っています
2009年の天下雑誌の意識調査から読み取れることは
62%の回答者は自分は台湾人だと認識しており
台湾人で中国人だと認識する者は22%
中国人だと認識したのは僅か8%でした
年齢構成より見れば
私がいま引用した
天下雑誌の意識調査で 全回答者のうち
自己を台湾人と認識したのは60%余り
それが若年層では約75%でした
そしてまた年齢的に
二十歳過ぎの年齢層では
全平均値62%より10%余り上回った
この数年いわゆる台湾の光が
非常にたくさん出現しました
このマスコミの過熱報道のもとで
すなわち王建民の後
たくさんの参加者は国際競技での入賞さえ獲得すれば
みんなは彼を台湾の光と呼びます
面白いのは
これら台湾の光が国外で入賞したとき
彼は国旗を振ったり
腕を振り上げて歓声を上げたりしても
しかし彼らは必ず
「我々は台湾人だ」と言います
彼は「私は中華民国人だ」とは言いません
これはとても簡単なことです
彼は「私は中国人だ」とも言いません
彼らは皆「私は台湾人だ」と言います 中華台北人
彼らに対して「私は台湾から来た」と
その種の話をします
私の妻の父親は大陸から来ました
彼は今に至るもこうかんがえています
台湾は国民党に管理させるのが良いと
しかし彼にとっても台湾は事実として独立しています
しかしまた彼は台湾は独立すべきだとは言えません
彼らにとってそれは口に出すのが憚られる事柄です