Tip:
Highlight text to annotate it
X
早稲田大学のそばにあって、明治、大正、昭和、平成の時代を歩んできた早稲田奉仕園。
キリスト教学生センターとして、世界中からの留学生をはじめ多くの学生たちや社会人たちが集まる出会いの場として、創立100周年を迎えました。
未来に向かって前進を続ける早稲田奉仕園。新しい時代の幕開けです。
早稲田奉仕園、その誕生の物語は今から100年前のある日、キリスト教伝道のため日本にやってきたアメリカ人宣教師と一人の早稲田大学の学生との偶然の出会いから始まります。
アメリカ人宣教師の名は、ハリー・ベクスター・ベニンホフ。
彼は当時のビルマ、現在のミャンマーへの伝道を行った後にシカゴ大学に学び、1907年卒業と同時にアメリカ北部バプテスト同盟から日本に派遣されました。
ベニンホフは東洋への伝道を決意した理由を友愛学舎の学生、岡田益吉(おかだ ますきち)に語っています。
「私が学生時代、とある湖のほとりで開かれたサマースクールに参加した時、東洋から帰ってきた年老いた牧師が『いま、東洋には何百万人に1人しか宣教師はいない』と演説した。
私は感動して、その場で東洋へ伝道に行く決心をした。親兄弟にも相談しないで行くことにして、たったひとり森の中へ入って、私を東洋にやってください、と神に祈りました」
市ヶ谷にあった東京学院バプテスト神学校の教師となったベニンホフにある日、街中でひとりの日本人学生が近づいてきました。
三浦梧捌楼(みうら ごはちろう)という早稲田大学の学生でした。彼はベニンホフをアメリカ人と見て「英語を教えてほしい」と訴えます。
ベニンホフは三浦の願いを受け入れ、築地の外国人居留区にあった彼の自宅で、早稲田大学の学生たちを集め、英語や聖書を教える教室を開き、3Lクラブと名付けました。
3Lとは、Loyalty, Love, Libertyを指し、
早稲田奉仕園の精神を表す標語となっています。
やがてベニンホフは学生たちを通して、早稲田大学教授だった安部磯雄(あべ いそお)と知り合うことになります。
安部磯雄は同志社大学を出て、岡山で牧師となり、欧米に留学。
同志社大学と早稲田大学で教鞭を執り、後に、政治家として社会民主党の初代党首になったクリスチャンの社会主義者として有名で、
大学野球の発展などを通じ、日本における野球振興に貢献したことでも知られる人物です。
安部は後に早稲田奉仕園の初代理事長に就任します。
安部磯雄との親交を通じて、ベニンホフは早稲田大学の講師となり、早稲田大学創立者、大隈重信と会うことになります。
そして、大隈からの依頼を受け取ります。
その依頼とは「早稲田大学の学生のために、アメリカの大学生と同じような生活を味わえる環境をつくってほしい」というものでした。
ベニンホフは大隈の依頼に応えるには、まず学生寮を作ることだと考えました。
安部磯雄の助言を得て、当時、早稲田大学のそばの鶴巻町にあったYMCAの学生寮を譲り受け、新しい学生寮を発足させることにしました。
これが、ベニンホフの命名による友愛学舎です。
友愛学舎は、今からちょうど100年前の1908年11月3日に開舎式を行い、ここに、後に早稲田奉仕園と名づけられるベニンホフの事業が開始されました。
そして3年後の1911年、ベニンホフは集まってくる多くの学生を受け入れるために場所を牛込弁天町に移し、新しい友愛学舎のほかに集会室や宣教師館、テニスコートなどを備えた学生センターを建設します。
弁天町では、後の早稲田教会の前身である「奉仕園信交協会」が創設されます。
教える会ではなく、協力し合う会の文字を用い、信じ仰ぐではなく、信じ交わるとしたのはベニンホフであり、彼の信仰に対する姿勢が表されていると言われます。
ベニンホフは、1917年に東京女子大学の初代理事長に就任しました。
この頃、向谷容堂が友愛学舎に入舎します。
向谷はベニンホフの精神を受け継ぎ、1968年に天に召されるまで、生涯を早稲田奉仕園に捧げました。
さらに大きな学生センターの建設を目指したベニンホフは1920年に、現在、早稲田奉仕園がある場所に約2,400坪の土地を購入し、スコットホール、友愛学舎、宣教師館などを次々と建設していきます。
できあがった新しい学生センターはテニスコート、バレーボールコートなどのスポーツ施設も備えた近代的なものでした。
このうち今も残り早稲田奉仕園のシンボルとなっているスコットホールはアメリカのスコット夫人からの多額の寄付金によって建設され、1922年1月に献堂式が行われました。
この頃の奉仕園では学生を対象とした、学生自身が企画し運営する様々な活動が行なわれていました。
3Lクラブや友愛学舎、教会の日曜学校の他にも、国際クラブ、汎太平洋クラブ、英会話セミナーなどの国際関係プログラム。
児童研究会や音楽部、運動部などもありました。
ベニンホフは純粋な伝道のための活動だけに留まらず、当時の学生のニーズに幅広く応えて、多くの学生が奉仕園に集まり、共に学ぶ場とすることに努めたのです。
この時代の奉仕園を巣立った人々の中には、ソニーの創立者・井深大、早稲田大学の総長となった阿部賢一、児童文学者の坪田譲二、リトアニアの総領事として多くのユダヤ人の命を救った杉原千畝などがいます。
1930年代に入り、世界情勢に暗雲が立ちこめ始めます。1993年、日本が国際連盟を脱退。そして、軍部の力は次第に勢いを増していきます。
こうした中、第2代理事長・山本忠興(やまもと ただおき)の働きにより、早稲田奉仕園は早稲田大学と共同で早稲田国際学院を開設します。
早稲田国際学院は海外の日系人の若者に日本語と日本文化を教えることを目的とし、1935年の開校から1945年の閉校までの10年間に、世界22カ国から千数百人の学生が学びました。
早稲田国際学院は日本の大学の国際化の先駆けともいえる事業でした。
しかし時代はにわかに急を告げ、ヨーロッパでは戦争が始まります。
日米間の関係が悪化の一途を辿り、キリスト教に対する圧力がますます高まる中、1941年3月、創立者ベニンホフは日本を離れ、アメリカへの帰国を余儀なくされます。
同じ年の12月、ついに日米は開戦。早稲田奉仕園は苦難の時代に突入します。
軍の力がすべてに優先する中、戸山ヶ原の陸軍施設に隣接する早稲田奉仕園は常に軍の接収の対象になっていました。
この危機を救ったのが理事長の山本忠興でした。
山本は機知を働かせ、早稲田奉仕園の土地建物を早稲田大学に委譲し、そこに軍の要求に応えるという名目で石油工学科を新設しました。
早稲田奉仕園は隣町の諏訪町に移転し、戦中の辛い時代を凌ぎます。
諏訪町で細々と存続していた早稲田奉仕園でしたが、第二次世界大戦の終わりとともに徐々に活動を再開します。
1947年、早稲田大学との土地建物の返還交渉がスタートしました。
早稲田大学の内部では反対の意見もありましたが、1949年に早稲田奉仕園のこれまでの大学への貢献が評価され、返還契約が締結されました。
1948年にアメリカバプテスト同盟より、戦後最初の宣教師であるフリデール氏が早稲田奉仕園に派遣され、
早稲田教会がスコットホールで礼拝と教会学校を再開します。
友愛学舎は1949年に元の場所へと帰ってきました。
病気療養中だった創立者ベニンホフは再び日本の地を踏むことを強く願いながらも、1949年4月24日、インディアナ州フランクリンで天に召されます。
志半ばにして倒れた75歳の生涯でした。
さて、戦後の早稲田奉仕園には多くの宣教師の方々が派遣されました。
フリデール氏、ロバートソン氏、ミラー氏、ホムグレン氏など
日本バプテスト同盟に派遣されたヒンチマン氏やベクウィス氏、他の宣教師の方々も早稲田奉仕園のために大きな働きをされました。
これらの宣教師の方々の働きの下、学生の活動が一気に活発化します。
3Lクラブが復活し、ワークキャンプなどの新しいプログラムが始まります。
1951年には活動のための学生組織「早稲田奉仕園キリスト教学生会」が組織され、学生プログラムは基本的に学生の自主運営に委ねられます。
「自分たち自らが決定し実行することの方がより良い結果を生む」と、学生の自主性・自発性を尊重したベニンホフの考え方を継承するものと言えます。
3Lクラブや聖書研究会、英会話クラス、コーラスグループなどの他に、国際問題についての研究会、人間問題研究会など様々なサークルが学生の手により企画され、
ワークキャンプやサマーキャンプ、春と秋のリトリートなどに加え、多くの講演会や国際学生セミナーなどの大規模なプログラムが学生のイニシアティブにより運営されるようになりました。
こうして活発に活動を続け、1950年代の終わりには300名近くの会員が所属していた学生会でしたが、
時代の流れと早稲田奉仕園を取り巻く環境の変化により、1970年代半ばには従来の姿を留めなくなり、やがて消滅していきます。
1960年代の終わりになると、早稲田奉仕園に大きな転機が訪れます。
従来続いていたアメリカからの活動資金援助が日本から他のアジアの国々に移ることで打ち切られることになり、早稲田奉仕園は財政的な自立の道を探らなくてはならなくなります。
レンガ造りの友愛学舎と宣教師館を取り壊し、その跡地を売却した資金を得て、財団法人として再スタートを切ることになります。
1972年のことでした。
新しく作られたビルの中に友愛学舎が入り、同じビルの中でセミナーハウスという新しい事業が開始されました。
セミナーハウスの開設当時には、主に国際関係の様々な新しいプログラムが試みられました。
欧米文化を早稲田大学の学生のために導入する窓口として作られた早稲田奉仕園ですが、アジアのなかの日本という認識から、その活動内容はアジアを中心とするものになりました。
学生・市民レベルでの国際交流の助けとなることを目的として、1973年に開設されたアジア語学講座は民間が運営するものとしてはパイオニア的存在として知られています。
「足で体験する東南アジアセミナー」などの当時、先駆的な試みであった現地訪問を組み入れたセミナーや日本とアジアの問題に関するシンポジウムや連続講座などのプログラムを企画運営します。
1985年には早稲田大学の求めに応じて、海外からの留学生受け入れのための学生寮・国際学舎を建設。
その3年後の1988年には2つ目の留学生寮を完成させました。
この留学生寮運営事業は早稲田奉仕園を支える大きな柱の一つとなり、早稲田奉仕園は日本のみならず広く世界の学生が集まる国際学生センターに向けての新しい歩みを始めました。
1960年代終わりから1990年代、早稲田奉仕園の転機の時代を支えたのは、第6代理事長・早稲田大学総長だった村井資長(むらい すけなが)です。
村井は戦時中、早稲田奉仕園が早稲田大学の石油工学科として使われていた時代から、長く早稲田奉仕園と関わりを続け、早稲田奉仕園が難局を乗り越えることに力を尽くしました。
今日の早稲田奉仕園です。
早稲田奉仕園のシンボル、スコットホールは東京都の文化財に指定されています。
友愛学舎には現在、14名の学生が生活し、今も創設以来の伝統である朝の会で聖書の学びと礼拝が行われています。
障害のある子どもたちをサポートするボランティアグループ、あすなろ会が誕生後、46年の時を経て今も活発に活動し、社会福祉の分野に多くの人材を送り出しています。
国際理解講座Global Understandingとそのフィールドワークプログラム「アジア青年フォーラム」が早稲田大学をはじめとする多くの大学から学生を集めて、開催されています。
留学生に日本の文化と生活を知ってもらうためのサークル、年中行事を楽しむ会Feel Japanが活動しています。
日本語教授法講座から誕生した、日本語ボランティアの会は日本に住む外国の人々に日本語を教えて今年10年を迎え、マスコミにもたびたび取り上げられています。
大正時代からの長い歴史を持つ、英会話クラス。
35年前に始まったアジア語学講座はその後も発展を続け、現在では9つの言語のクラスに年間300人余りの受講者が学んでいます。
国際交流のための事業も行われています。100周年記念事業のプログラムとして、オセアニア・フューチャーフォーラム(2006)と南アジア・フューチャーフォーラム(2007)の様子です。
いずれも国際交流基金との共同で開催されたもので、オセアニアの島々や南アジアの国々から将来を嘱望される若者を日本に招き、
ともに生活をし、意見を交換することを通じて、彼らの間での、また日本とのネットワークを作ることを目的としたプログラムです。
外国からの留学生たち。2004年に完成した12階建て98室の第3号館、国際友愛学舎を加えて、
早稲田奉仕園にある留学生寮の部屋数は全部で150室余りとなり、世界の約30カ国から早稲田大学に学ぶ留学生たちが暮らしています。
早稲田奉仕園を支える重要な事業であるセミナーハウス。今日も多くの人々が会議室やホールを利用しています。
学生や地域社会の人々に出会いと学びの場を提供し、早稲田奉仕園の活動を財政的に支える重要な事業となっています。
敷地内には早稲田教会と東京平和教会の2つの教会があります。
早稲田教会はベニンホフが開いた奉仕園信交協会を母体とし、1939年に教会として独立したものです。
東京平和教会は1989年にできた、日本バプテスト同盟の教会です。
隣接する日本キリスト教会館やアバコビルでは、様々なキリスト教団体が活動しており、キリスト教のエキュメニカルセンターとして、日本のプロテスタント教会の中心的な場所となっています。
早稲田奉仕園とその周りには、多くのNGO・NPOの組織が活発な働きを続けています。
日本の国際NGOの草分けであるJOCS(日本キリスト教海外医療協力会)を始め、日本を代表する国際NGOとして、1972年の創立直後から早稲田奉仕園の場で活動しているシャプラニール。
その後、JANIC(国際協力NGOセンター)も加わり、この地が国際NGOの拠点としても知られるようになりました。
1908年の創立後、100年の時を経て、早稲田奉仕園の景観は異なるものとなり、世代の移り変わりと共に、そこに集まる人々も変わっていきました。
しかし、早稲田奉仕園の活動は創設者ベニンホフの精神を末永く伝えることを使命とした人々によって、時代の変化に柔軟に対応しながら引き継がれてきました。
早稲田奉仕園には、その創立の当初から友愛と奉仕というキーワードがあります。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」は友愛学舎を表す言葉であり、
「あなたがたの中で偉くなりたいものは皆に仕えるものになり、一番上になりたい者はすべての人の僕となりなさい」は早稲田奉仕園の精神を表す言葉です。
この2つの聖書の言葉は、いずれもベニンホフによって選ばれました。
3L、友愛、奉仕。これらのキーワードは時代を超えて、早稲田奉仕園の精神的基盤をなしてきました。
「早稲田奉仕園の使命はイエス・キリストを理想の教育者として仰ぎ、その奉仕の精神に基づき、豊かな人間形成の場を提供することにある」と財団の目的に謳われています。
その歴史を通じて、早稲田奉仕園は国際的な視点を備えたキリスト教学生センターとして存在してきました。
早稲田奉仕園はその働きを通して学生に奉仕し、やがて奉仕されるものが奉仕するものに変わることができるような、人間形成の場を提供しようとしてきました。
21世紀においても、早稲田奉仕園は創立の精神を受け継ぎながらアジアを代表する国際学生センターとなることを目指しています。
そこには世界各地からの留学生も交えて、そこに集い、過ごす学生をはじめとする様々な人々が国籍、民族、宗教、習慣、歴史や価値観の違いを超えて
友を兄弟として愛し、その働きを通して人に奉仕するという友愛と奉仕の心を育て平和な世界を創ることに貢献する地球市民として生きていくという願いがあります。
キリスト教の精神を継承し、早稲田大学や多くの人々、団体との協力関係を保ち、連携し、助け合いながら早稲田の地に国際学生センターを築き上げること。
そして、はっきりとした価値観や倫理観を持ち、多様な文化が共に生きる世界の中で、貢献することのできる次世代のリーダーの育てること。
世界に広がる人と人とのネットワークを形成することを目指して、早稲田奉仕園は前身しています。
神の導きとも言える、感動的な、人と人との出会いの数々から生まれた早稲田奉仕園は、これからも創立者ベニンホフ博士の精神を受け継ぎ、人と人との出会い大切にしながら、未来に向かって羽ばたきます。