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フランス植民地時代に ベトナムで思想家、民族主義運動家
として知られた
ファン・ボイ・チャウは
1904年、抗仏運動のために維新会を結成
翌1905年に日本に武器の援助を求める ため密かにベトナムを脱出
日本に渡りました。
そして中国の亡命革命家
梁啓超の紹介で
大隅重信
犬養毅
福島安正
根津一と言った人物と知り合い
武力闘争からベトナム青年の
日本留学運動へと活動の大展開を行い
この運動はドンズー運動と呼ばれ、
ベトナムの若い知識人たちが
フランスの植民地支配からの脱却を目指して
日本へ留学した事を指します。
2005年、ファン・ボイ・チャウ終焉の地であるフェ市で
ドンズー運動百周年の記念行事がありました。
静岡県袋井市の浅羽地区からの訪問団は
浅羽佐喜太郎記念日の発表やその展示
会の開催
ファン・ボイ・チャウ銅像の除幕式など
多くの行事に参加しました。
ドンズー運動は
日本を舞台にした出来事でありながら、
日本ではこの歴史を知る人がほとんどいません そしてその存在が知ら
れていない浅羽佐喜太郎と
ファン・ボイ・チャウとの間には あるドラマが秘められていました。
十八世紀から19世紀にかけて
アジアの各国は西欧列強の 侵犯を受け
植民地化が進んでいました。
1858年
フランスのナポレオン3世 は
フランス艦隊をベトナムへ派遣し
8月31日
ついにフランスとスペインの連合艦隊が ダナン(Da Nang)に入港し、占領
しました。
翌年には
ブンタウ(Vung Tau)からの進行して南部 ベトナムを占領し
その後、1887年10月17日、
フランスの大統領令には インドシナ全域を
総督が統治する事になり フランス領インドシナ
総督府を施しました。
この総督府の下に
フランスはベトナムに徹底したどうか政策を行い
理不尽な重税
ベトナムを苦しめました。具体的な政策としては
それまで使用していた漢字 表記を
ローマ字表記に変えさせられた。
教育制度の変更
フランス語の履修や
ベトナム独自の文化を否定
酒の製造販売をフランスが 独占し
ベトナムで伝統的に各家庭で 作られてきた
自家製のどぶろくは禁止 された
また村ごとに酒の消費量を 割り当てられて
強制的に消費させられた
酒の値段は五倍になり
フランスに莫大な利益をもたらせた
塩の専売権をフランスが 独占
塩の値段が五倍になり市民 生活が困窮した
アヘンの販売をフランスが独占
値段は倍に
アヘン吸引者は3倍になった
開墾した土地をフランスの 入職者に
勝手に分け与えてしまう
ベトナム人はこのような
不当な扱いを受け継がなければならなかった。
ベトナムの人々は非常に苦しめられ、
さまざまな反発や反乱が頻発しました。
しかし、少しでも反抗を企てたものには
たちどころに逮捕、監禁され
重労働に従事させられ
処刑されました。
ファン・ボイ・チャウは
1904年4月ベトナムの中部 にあるカンナム(Quang Nam)市で革命運動
の組織を設立
会長にはクォン・デ(Cuong De)候がおされました。
グェン(Nguyen )朝を樹立した嘉隆帝(ザーロン - Gia Long)帝の長男であるクォン・デ
候は若く
して死んだKa-in皇太子 の直系皇族で
ベトナムの復興と
シンボルとしてふさわしい 人物でした
抵抗運動は
将来フランスと戦うための力 をたくわえるために
武器の準備から始めること になりました
そのためには
秘密ルートに
外国の援助を求めなければ なりません
国内調達の武器では
フランス勢力には勝てない からです
ファン・ボイ・チャウは
クォン・デ候の代理として
海外における活動を担当 することになり
当時日露戦争中で優位に戦っていた日本へ
援助を求めに行くことにしました。
1905年1月20日
当時38歳のチャウは仲間と別れ商人に変装し
ベトナムのハイフォン港から
広州市香港へ経
中国に入国しました。
同じく1905年
日露戦争が激化し 日本海海戦で日本が
バルチク艦隊を壊滅させたことにより
日本の勝利が決定的 になりました
日露戦争中日本へ
行く道はありませんでした。
その為チャウは
1ヶ月間上海に滞在し
1905年4月下旬
ベトナムを出発して 4ヶ月間をかけて
神戸港に着き
汽車で横浜に向かいました ファン・ボイ・チャウはこの時
日本の汽車が清潔で
乗客と荷物を区別し
かつ鉄道関係者の接客態度が良い ことに感動したと言います。
横浜についたファン・ボイ・チャウは
中国の亡命革命家医梁啓超を訪ねました。
梁啓超は清朝末期
中華民国初期の政治改革家
ジャーナリスト
歴史学者でした。
梁啓超は
ファン・ボイ・チャウをあたたかく迎 えて話しを聞いた後
こう語りました。
君は日本に援助を求め
フランス支配を崩壊させる ための
闘争を発展させたい
といったが、
まったく同感だ
だが、日本政府に援助を煽ることは望ましくない
あなたの国はいずれにしろ いつかきっと独立できる
だろう
だから、独立よりも心配なのは独立後のベトナム国民の教育だ
独立計画には重要な要素 があります
1つ目
ベトナム国内勢力の実力の拡大
二つ目
中国の両広からの
武器の援助
三つ目
日本の外交
この三つです
1905年5月
東京で梁啓超がチャウに紹介した のは
当時の文部大臣
犬飼つよしでした。
次に
当時兼製本党総裁大隈重信に ありました
日本語は話さないちゃんは 筆談で思いを伝えました
貴国は君主制ですが
貴国の皇族の意見は聞いて いますか
この運動をリードするのは
皇族でなければなりません から
日本に
同州同種同文
の国を助けてほしいのです
皇族であるクォン・デ候を会長 としてはいますが
われわれは
まずはフランスを追い出し
独立を回復することが目的 です
郡主か民主かは別の問題です
日本政府がベトナム革命闘争 のために
武器援助することはまだ出来 ません
それより
革命のための人材養成が先 ですし
運動の象徴である
ベトナム皇族のクォン・デ候を
早く日本に迎えた方が
いいのではありませんか
そして大隈
あなたは
特別なお客だから
日本での生活は心配しないで ほしい
特に
日本人はあなたのように
立教・愛国心を持っている人を 歓迎します
私は川柳を超え
祖国と自分の民族を独立 させるため日本にやって
きました
ベトナムはフランスに侵略 されているのに
私だけ日本で楽な生活は できません
筆談ながら
国が前途をかけた激烈で清新 な議論に同席した柏原文太郎
は三国志の英雄の話を聴く ようであったと
初めて会ったベトナム人のファン・ボイ・チャウの人物に大きな魅力
を感じていました
数日後、梁啓超は自宅にファン・ボイ・チャウを招き
2つの忠告をしました
一つは
ベトナムの現状を文章で書いて それをを世界に知らせ
なさい
2つ目は
しばらく日本で人材を養成 するべき